「音楽と映像がとても深いところで一体化して、見る人、聴く人に迫ってくるこのコンサートは、感動の力が通常のコンサートや通常の映像の鑑賞では想像できないほどの力でみなさんの心に押し寄せてきます。
それが何といっても最大の見どころ、聴きどころです。
その感動を、ぜひ多くのみなさんに体験していただきたいと思います。
────加古 隆」
それが何といっても最大の見どころ、聴きどころです。
その感動を、ぜひ多くのみなさんに体験していただきたいと思います。
────加古 隆」
2016年から開催されている「映像の世紀」コンサート。
オケは東フィル、ピアノ演奏と作曲は加古隆さんだが、加古さんはメシアンの弟子だそうである。
そうなると、どうしても先日の東フィルの「トゥルンガリーラ交響曲」を思い出してしまう(愛、あるいは無秩序を包摂する”森”)。
もちろん、指揮はコバケン先生ではなく、秋山和慶さんである。
さて、このコンサートを分かりやすく説明すると、オケとピアノの演奏を聴きながら、大スクリーンで主に戦争の映像を観るというもの。
ほぼ大半が戦争の映像といって良い。
具体的に言うと、目には、
・死体(黒焦げの死体が折り重なっている、戦死者が荷車で運ばれ無造作に地面に降ろされる、など)や爆撃シーン(神風特攻隊の突撃、原子爆弾の投下・爆発)、アウシュヴィッツ収容所のやせこけた裸のユダヤ人たちなどの、目をそむけたくなるような映像のオンパレード
耳には、
・加古さんが作曲した「パリは燃えているか」などの、美しくも哀しい・あるいは戦争を描写した衝撃的な音楽
が入って来るという、視覚と聴覚に同時に訴えかけるコンサートである。
「眼をそむけたくなるような」という反応になったことについて、この数十年、テレビの自主規制によって、この種の映像をテレビでみる機会が減ったことが一つの要因であることを痛感する。
「映像の世紀」が放送された1995~1996年ころは、まだこういう死体などの映像がテレビで流れていた。
印象的だったのは、アウシュヴィッツで虐待されていたユダヤ人たちの映像だけでなく、今年のイスラエルによるガザ侵攻で被害に遭った親子の映像も出て来たこと。
被害者と加害者は入れ替わったが、集団と集団の間の暴力の連鎖は、今も続いているわけである。
ところで、コンサートが終わった時に私が気付いたのは、「映像の落とし穴」というものがあるのではないかということである。
どういうことかというと、ライブ公演によく行く人間として常々思っていることだが、
「生の演奏・演技と、映像(ストリーミング配信など)の演奏・演技は、全く別ものである」
ということである。
映像は、いかに現実に似せて構成したといっても、結局は人工物であり、現実のうちのわずかしか伝えていない。
むしろ、これによって人間は安全圏に逃げ込み、生の現実から遠ざかっているという見方が出来る。
分かりやすいのは死体である。
実際の死体は、まずもって匂い(腐敗臭)が物凄いのだが、これを映像は全く伝えない。
こんな風に、映像には功罪両面があるということが出来そうだ。