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Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

歌、唄、詩(15)

2025年04月17日 06時30分00秒 | Weblog
 日本近現代史については、よく「江戸時代からの連続性」が強調されるのだが、歌謡史についても同じことが言えると思う。
 前回指摘した「芸者歌手」(から「ムード歌謡」への系譜)はその典型であり、江戸時代の小唄、長唄、清元などの「唄」のテーストは、明治期以降の日本歌謡界に注入されたのである。
 ここで興味深いのは、昭和歌謡(というか日本歌謡)における巨星とも言うべき古賀政男が、「唄」の取り入れに貢献していることである。

 「16歳の時、両親の反対を押し切り、神楽坂で芸者となる。
  その後、歌唱力が評判となり、その噂を聞きつけた作曲家の古賀政男(こが まさお/1904年11月18日-1978年7月25日)と作詞家の西条八十(さいじょう やそ/新字体:西条/1892年1月15日-1970年8月12日)が、作曲家の万城目正(まんじょうめ ただし/1905年1月31日-1968年4月25日)の紹介で神楽坂はん子の元へやってきた。そこで、“アリラン”を披露し、また、「私、芸術家って大嫌い」と発言するなどその竹を割ったような性格も古賀に気に入られ、コロムビアへスカウトされた。

 西條八十と古賀政男(と万城目正)からスカウトされる芸者!
 こうなると、もうデビューするしかないだろう。
 古賀政男が凄いのは、音楽学校を首席で卒業した藤山一郎のような”一流大卒本店エリート社員(歌手)”とコンビを組んだだけでなく、”地方営業叩き上げ社員(歌手)”のリクルートにも熱心だったところである。
 だが、これは驚くにはあたらない。
 古賀が中学3年生以来親しんできたマンドリンは、「唄」のベースとなっている三味線の西洋版にほかならないからである。
 かくして、江戸時代の「唄」の要素が昭和歌謡に注入されたわけだが、これに対し、主に関西で、「唄」とは違って「語り」に重点を置くジャンルが成立していた。
 それが「浪曲」(浪花節)である。 
 なお、「唄」がメロディーに重点を置くのに対し、「浪曲」は、(やや強引だが)「詩」に重点を置く、という風に対比しておく。
 「浪曲」は、明治期以降も「歌謡曲」と並ぶジャンルとして人気があったが、高度成長期に至る頃には衰退してしまった。
 ところが、浪曲師の中から、三波春夫、村田英雄、天津羽衣、二葉百合子などの、歌謡界に転身する歌手たちが現れた(前掲「昭和歌謡史」p223~)。
 いわゆる「歌謡浪曲」の誕生である。
 ここでも古賀政男は活躍しており、三波春夫とのコンビでは「東京五輪音頭」を作曲しているし(正確に言うと、NHKの依頼で古賀が作曲し、レコード各社の”競作”の結果、三波がトップになった。前掲p240~)、あの村田英雄も古賀がリクルートしたのだった。

 「「王将」や「人生劇場」などで知られる村田英雄さんは昭和を代表する演歌歌手。浪曲で鍛えた豪快な歌声で日本人を勇気づける人生の応援歌を歌い続けた。父は浪曲師、母はその三味線を弾く曲師ということもあり5歳で浪曲の初舞台を踏んだ。浪曲で一家を成していた村田さんがあえて歌謡界に転向する切っ掛けとなったのは作曲家古賀政男さんの薦めによる。芸に対し厳しかった母の思い出。150万枚、歌手人生を変えた大ヒット曲「王将」誕生の経緯などを語る。
 
 この「歌謡浪曲」の路線は、現在も中村美律子、三原佐知子、坂本冬美や島津亜矢などに承継されているし、広く北島三郎や森進一なども「歌謡浪曲」のカテゴリーに含めることがあるらしいので、今なお相当な勢力を誇っていると言って良いだろう。
 かくして、古賀政男は、日本歌謡に「唄」と「語り」(「詩」)を注入することに多大な貢献を行ったのである。