「しかし、J‐POPは手に負えなかった。筒美は「いつでも時代が先に行って、時代が作家を選んでいくって言うことだなってつくづく思いました」と、ヒット曲を生むため時代を先取りした音楽を作ってきたが、それよりも時代の変化の流れの方が早く、追いついていけなくなった限界を語っている。J-POPと歌謡曲とでは、全然作り方が違うことがうかがえる。
そして平成9年(1997)頃には、子供の頃に嫌いであったという昭和20年代の歌謡曲に対する思いにも変化があらわれた。筒美は、「歌謡曲を本当に嫌いであったかと言うと、それは違うと思う」「今とても好きですもの。例えばあの頃聴いた美空ひばりの曲、つい歌っちゃったりするんですよ。でもその頃は嫌だと思っていた」と語っている。古賀政男、古関裕而、服部良一、万城目正といった、先輩たちが作り出した歌謡曲をリスペクトしていたことに気がついたのである。」(前掲「昭和歌謡史」p351)
平成に入ると「J-POP」の興隆とは裏腹に、「演歌」だけでなく非「演歌」の旧「歌謡曲」も衰退に向かう。
この原因については、
・「曲のつくり方が根本的に変わった」(上述の筒美の見解)
・「聴取者の好みを凌駕する「聴き歌」としての歌謡曲が求められなくなった」(阿久悠の見解。前掲p352~)
・「四つ打ち系のダンスミュージックに乗せて、英語の歌詞を使いながら歌う必要がある」(刑部先生の見解(?)。前掲p352~)
などという分析がなされているが、どれも少しずつ違っているように思う。
旧「歌謡曲」(特に「演歌」)の衰退について言えば、やはりコンテンツの枯渇という問題が一番大きいと思う。
これに最も大きい影響を与えたのは、私見では、コミュニケーション手段の発達、端的には携帯電話の普及による「空間的離隔の克服」だったと考える。
平成5(1993)に3.7%であった携帯電話・PHSの普及率は、平成11(1999)年には66.7%(約3分の2の世帯)に上昇し、平成15(2003)年には94.4%に達した(携帯電話世帯普及率)。
これに伴い、「万葉集」以来大きなテーマを成していた「空間的離隔」及びそれが帰結する「別れ」という、「歌」における最大のコンテンツが実質的に意義を失ってしまったのである。
すなわち、「駅」(停車場)、「港」(波止場)、「空港」(エアポート、ウィング)、「バス・ストップ」、「交差点」などといった「起点」及び「終点」はもちろんのこと、「池上線」、「津軽海峡」、「哀しみのRoute16」などといった「経路」、さらには、「列車/汽車」(「上野発の夜行列車」、「あずさ2号」など)、「船」(「別れ出船」、「連絡船」など)、「飛行機」(「雨に煙ったジェット」など)、「バス」(「サヨナラバス」など)、「馬」(昭和初期)、「車」(昭和中期以降)などといった「ヴィークル」を、「別れの歌」の歌詞に取り入れることが難しくなった。
平成二けたの時代になると、男女が「駅」や「港」や「空港」や「バス・ストップ」や「交差点」などで別れたり名残りを惜しんだりするシーンを「歌」にするのは難しくなったし、少なくともそういうシーンはリアリティを失った。
「空間的離隔」及びそれが帰結する「別れ」の問題は、携帯電話によって容易に解決されるからである。
こうして「別れの理由」(「別れの理由」の類型論)が激減したため、中島みゆきを除く大多数の作曲家にとって、「別れの歌」を作るのはかなりハードルが高くなってしまったのである。
また、コミュニケーション手段の変化に伴い、古い媒体やガジェット、すなわち「手紙」(「カナダからの手紙」や”あなたからのエアメール”など)、「(固定)電話」(「恋のダイヤル6700」を始め”ダイヤル”’(又は”ダイアル”)を含む曲:ダイアルを回さないで)や「ポケベル」(「ポケベルが鳴らなくて」)などを歌詞に含む曲は一挙に陳腐化してしまった。
だが、コンテンツよりも大きな問題は、やはりシニフィエ=「人の内面(身体の内部)にある表現を求めるもの」のレベルにある。
そのヒントは、おそらく、「四つ打ち系のダンスミュージック」、なかんずく「AADM」にあるのではないだろうか?