かくして、古賀政男は、西條八十のような超一流の詩人らとコンビを組み、かつ「唄」と「語り」(「詩」)を貪欲に摂取しながら、自らの「歌」を紡ぎ出し、「歌謡曲の父」と呼ばれるに至った。
やや大げさかもしれないが、昭和の前半・中盤においては、彼(と西條八十ら)こそが、日本のVolksgeist(民族の魂)から溢れ出る唄・詩を歌う「神の腹話術人形」であり、ここにおけるシニフィエは、(日本)「民族の魂」だった。
なので、当時の歌謡界は「パックス・コガーナ」のような様相を呈していたと思われるのだが、もちろんこれには反発もあった。
だが、私の見る限り、既に「ムード歌謡」や「歌謡浪曲」のジャンルにまで古賀の力は及んでいたのだから、船村らによる「演歌の乱」の影響は限定的なものにとどまったと言えそうだ。
但し、ここで注意すべきことがある。
それは、船村が、東洋音楽学校ピアノ科を出て米軍キャンプ専門のバンドで活動した作曲家であったことである。
彼のような音楽家が古賀メロディーに強い反発を覚えたのは何故だろうか?
古賀政男の「歌」をうんと単純化すれば、それは人間が「唄」や「語り」(「詩」)、つまり言葉を「声」として表出するものであり、使用する楽器はマンドリン(又はギター)である。
この真逆の「”アンチ古賀”ベクトル」を想像してみると、それは、
① 言葉を極力用いないもの、つまり「歌」から遠いもの。
② マンドリン(及びギター)ではなく、他の楽器を用いるもの。
を要素として含むことが推測出来る。
この点、「演歌」は言葉を用いた「歌」なので、船村の「”アンチ古賀”ベクトル」について、①は除外される。
そこで、消去法で行くと、船村の「”アンチ古賀”ベクトル」は、②の要素を含んでいたのではないかと思われる。
(なお、筒美に代表される「ピアノ・ポップス路線」については後述することにしたい。)
この②の要素は、主にメロディーに関する問題だが、もっと大きな要素は、むしろ①の方ではないかと思う。
これについては、船村が米軍キャンプ専門のバンドで活動していたことが一つのヒントになるだろう。
①は、要するに”非声楽的音楽”であり、これを突き詰めた形態の一つが、ダンス・ミュージックである。
日本の歌謡界について言えば、端的には、ミュージカルやディスコサウンドなどを含むAmerican Dance Music(「アメリカン・ダンス・ミュージック」。以下「ADM」という。)、なかんずく(ポリコレ的に「黒人」という言葉は避けたいので)African Americans' Dance Music (「アフリカン・アメリカンズ・ダンス・ミュージック」、以下「AADM」という。)である。
私見ではあるけれど、「ADM」なかんずく「AADM」こそが、「”アンチ古賀”ベクトル」の要素①の正体である。
分かりやすく言い換えると、
「古賀メロディーに乗せてビヨンセが踊ることは出来ない」
ということである。