華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

ふるさとは私の中に――UTSコラム再掲

2007-02-17 01:36:16 | 箸休め的無駄話

 今の世の中は息苦しいよ、もっと住みやすい社会を作りたいね、みんなで幸福になりたいね、と考えているブロガーのゆるやかな輪であるUnder the Sunの隅っこに参加して、ほぼ1日おきで掲載されるコラムを手伝ってます。ここのところ忙しくてプライベートでパソコンに向かう時間はごく僅かなんですが、一応元気で生きている証拠として、先日――と言っても2月1日――のコラムを(前書きと後書きを除いて)再掲しておきます。ほんともう、箸休め。

 でも本当は私のコラムよりよほどおもしろくて、考える手掛かりになるコラムが常時掲載されておりますので、皆さん、それをお読みください。

◇◇ふるさとは私の中だけに在る◇◇

 今回のお題は「ふるさと」。この言葉を聞いてすぐ反射的に思い出すのは、たとえば――(あまりに有名なものばかりで改めて言うのも気恥ずかしいほどだが)――
「兎追いし彼の山……」の歌。kikyoさんが引用しておられた、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる室生犀星の詩。そして啄木の短歌「ふるさとのなまりなつかし停車場の人混みの中にそを聴きに行く」。

〈ふるさとは言語の響き〉

 私は兎を追いかけた記憶も鮒を釣った記憶もないから、実のところ「彼の山、彼の川」の歌はさほどしみじみと響かない。故郷に歓迎されなどしないが逆に石持て追われたわけでもないから、「うらぶれて異土の乞食となるとても、帰る所にあるまじや」という感覚もない。ただ、啄木の歌は何となく感覚としてわかる。

 私は関西で生まれ、関西で子供時代を過ごした。年月としては既に東京暮らしの方が長く、普段使う言葉はほとんど東京のそれになった(時折関西弁も使うけれど、それはかなり――とまでは言えないまでも、相当に意識的な行為である)。それでもいまだに、関西風のイントネーションに懐かしさを覚えるのだ。お笑い番組などでやや大げさな感じで使われたりする「関西弁」ではなく、かすかなイントネーションに。そしてしばしば――特に(否定的な意味合いを含まない)感情的な発言をする時に、関西弁を使った方がピタッと来ることもある。たとえば「ワヤやがな~」とか「それが、なんぼのもんや」「どないせいっちゅうねん」とか。
 このところさまざまなブログで厳しく批判されている(私もつい書いてしまった)「女は生む機械」発言の厚生労働大臣。私の不快感は、実のところ次の一言に尽きるかも知れない。
「あほんだら!!」
(下品に感じられたら……すみません)

 実は私にはもうひとつのというか、第二の「ふるさと言葉」がある。母の郷里である、四国の田舎の言葉だ。子供の頃――特に小学校3年生頃から卒業する頃まで、私は春夏冬の長期休暇の半ば以上、母の実家で過ごした。そこで皆が使っていた何トカ弁も、幾分か私の中に刷り込まれている。むろん時として他郷の人にはわかりにくいほどの言葉を使うのは年寄り達に限られており、中年以下の人々――特に私と同世代のイトコ達などの言葉は、私とほとんど変わらなかった(ちなみにイントネーションは大阪神戸と変わらない)。だが、時たま私が普段暮らしている地域とは微妙にニュアンスの違う表現や語尾もあり、それが私の中に少しずつ少しずつ降り積もった。自分では使いこなす(?)ことはできないが、今もその微かな響きを聞くと――いささかだらしないことに、そしてハードボイルドを気取って生きている関係上あまりヒトサマには言えないのだが――ふと心が緩む。

〈ふるさとは原風景〉

 これはいったい何だろう……と改めて考えた。関西や四国の言葉が好きなのかと聞かれれば、それに対しては「否」とはっきり言える。いや、むろん嫌いというわけではない。要するに言葉としてのそれらには何らの思い入れもないのだ。
 だからおそらくは、その遠くでひそやかに響く音声が、私に自分が愛され抱かれていた日々、限りない未来があると信じていた日々を思い出させるということだろう。私の母も、母の身内の大人達も、子供に指示命令するタチの大人ではなかった。私を取り巻いていた身内以外の大人達も、(一部例外はあるにせよ)ひたすら優しかった。
 下校途中の私を呼び止めて、「ドーナツがあるから食べて行きぃな」などと声を掛けてくれた商店街のおじちゃんおばちゃん達(いやしいって? す、すみません)。毎年クリスマスになるとプレゼントを贈ってくれ、さらには代わる代わる会社の保養所を取って自分の家族と一緒に連れて行ってくれて「頑張って勉強しいや」「お母ちゃん、大事にしいや」と同じことばかり言った亡父の旧友たち。従兄に負けまいとして登った木から落ちて怪我をした時に、「おうおう、痛かったやろうのぉ。ばあちゃんが薬つけちゃるけんのぉ」と言いながら駆けつけて来た祖母(でも彼女は、もう木に登ってはいかんとは言わなかった。祖母だけでなく、私は周囲の大人達からよほどのことがない限り、あれをしてはいかん・これをしてはいかんと言われなかったという記憶がある。やってみい、行ってみい、読んでみい、考えてみい、と言われて育ったように思う。おかげでしょーもない人間になったと言われればそれまでだけれども)。あの頃の私は――他者から愛されていることを感じ、近づいてくる他者を無条件で信じることができたのだ。耳の底に残っている言葉の響きは、その時代を思い出す時に欠かせないBGMである。

 BGMと言えば、いわゆる「山や川」もBGMであろう(というより、記憶を呼び出した時の壁紙、かな)。その意味で、「兎追いし彼の山」の歌がよくわからないというのは半ば嘘かも知れない。
 私が生まれ育った土地は山と海がそれぞれ目の前に迫った所だったので、今でもそういう地形にはわずかではあれ懐かしいものを感じる(余談だけれども、東京で暮らすようになって何より驚いたのは、近くに山も海も見えず、従って方向の見当がつかなかったことである。私の育ったあたりでは山の見える方が北、海の見える方が南に決まっていたのだ)。だがBGMでも壁紙でも何でもいいが、いずれにせよそれだけが独立して存在しているわけではない。人は所詮、人との関わりの中で生きていくのであり、関わりのありようが風景の色も変えるのである。

 すべてを失っても、私には幼年時代がある――と詠ったのは、ヘルダーリンだったろうか。詩集を紐解くわけでもなく、単にいい加減な記憶で書いているので間違っているかも知れないが(皆さん、間違ってたらすみません。私は物覚えが悪いのです)……ともかくそういう意味の絶唱を綴った詩人がいた。
 幼年時代、とは言うのは当たらない。もっと広く、子供時代と言うべきだろうが――私は大人達に守られていると感じることが出来た。むろん人の常として思春期と呼ばれる頃になると物事を斜にかまえて見る癖がついたのだけれども、少なくとも十歳頃までの自分は紛れもなく「見守られ、そのことを信じている」子供だった。そういう時があったというただ一点で、私はギリギリ世界を見放さずにいることができる。今育ちつつある子供達、そしてこれから生まれてくる子供達にも、私はそういう「ふるさと」を残したい。
 ふるさとは人工的に創るものではない、ましてや愛せと強要するものではない。あたかも母の胎のように――自分というものが崩壊しそうになったときに、「私が生きていることを歓び、私を見守ってくれた存在たちを裏切ってはいけない」と踏みとどまれる砦。うつくしい国、などと薄っぺらな言葉で語る輩に、この砦を蹂躙させはすまい。

 突然思い浮かんだが、「国破れて山河あり」という、これまた有名すぎるほど有名な漢詩。私はこれをいつも「国破れても、山河あり」と読んでしまう。国なんざどうでもいい。国がなくなったって、私の、そして私たち一人一人の原風景は残る。いや、むしろ――国などという虚構の枠組みは、なくなってしまった方がいい。その時はじめて、私はふるさとという言葉を何の衒いもなく愛せるかも知れない。

(了)

コメント (3)
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