華氏451度

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なぜ少子化がそんなに怖いのか

2007-02-10 01:18:08 | 現政権を忌避する/政治家・政党

〈前置きとして〉

「若い人達は2人以上の子供を持ちたいという極めて健全な考えを持っている」とのたもうた、柳沢厚労相。女性を「産む機械、装置」にたとえた発言については「陳謝」を繰り返しているが、「健全発言」のほうは陳謝・撤回を拒否している。7日の衆院予算委員会で、「みんなが子どもを持ちたくないと意思表示をしたら、私は困ってしまう。その言葉を撤回しなければならない理由が分からない」と述べたそうだ。何度でも言うが、この人はホントにわかっちゃいない。最初の問題発言に関して、「うっかり(何の悪気もなく)機械なんて言葉を使ってしまったからマズかっただけ」と思っているだけなのだ。    

おばさんをお嬢様と言っているだけの言葉にだまされない!」ととくらさんは怒っておられたが、柳沢厚労相はまさしく その手の表面的な言い換えだけでモノゴトが解決すると思っている御仁の典型。「ジジババ」を「お年寄り」と言い換え、「おんなこども」を「ご婦人やお子様」と言い換えたりして、それで文句ないだろと思っているのだ。

 

〈公僕の価値判断は越権行為〉

 それはともかくとして、「健全」発言の方である。「機械・装置」発言以上に、不愉快きわまりない。なぜ不愉快かと言えば、明確な価値判断が入っているからだ。

 私は沸騰しやすい「小さなポット」だけれど、それでも親戚のジイサンバアサンが「子供は2人以上持ちたいっていうのが、やっぱり健全な考え方ではなかろうかのう」と言ったのであれば、いきなり烈火の如く怒ったりはしない。そういう考え方を持つのは、いわば個人の自由であるから(その考え方は違うと噛みつくかも知れないが)。柳沢厚労相にしても、自分の家族の集まりか何かで言うのは自由。しかし厚生労働大臣の立場で、公の席で言ったというのが最大の問題なのだ。

 私は選挙権を持ち、税金を納めている国民の一人として、「公僕」に「勝手に価値判断する権利」を与えた覚えはない。それは越権である。(そんなこと言われれば自由にモノが言えなくなるじゃないかって? 当たり前です。公僕というのは、そのぐらい縛りのきつい立場なのだということを自覚してもらわないと困る)

 

〈後ろめたさとほろ苦さ〉

 私は子供というものを持っていない。考えれば考えるほど親という存在になることに腰が引け(自分がよっぽどろくでもない子供だったからかも知れない)、この年まで(苦笑)子供を持つという選択をできないままで過ごしてきた。だからこそ、というべきだろうか。私は子供を育てている、あるいは子供を育てて独立させた友人知人達に対して、常に後ろめたい、ほろ苦い思いを抱いている。

 だが、これだけは断言できる。後ろめたいのは、「自分は不健全だ」と思っているからではない。「見る前に跳べ」なかった自分のことを顧みるつど、勇気ある決断をした友人達に無条件で敬意を表するからである。いわば、自分が面倒なことから逃げてきたような気がするわけだ。ほろ苦いのは、ひとつ楽しみを捨てていたんだなと思うからだ。

  私の高校時代からの友人のひとりが、少し前に癌で手術した。一応手術は成功したが、はっきり言って予断を許さない状態。その手術前に彼が真っ先に言ったのは、「子供つくらなかったことを、ちょっとだけ後悔しているんだ……」。彼は二十代前半で結婚したのだが、(私とは理由も感覚も違うと思うけれども)さんざん迷った末に子供は作らないという選択をした。その選択を間違っているとまでは思わないだろうが、「子供を持ち、育てるということもしてみたかったな。きっと楽しかったと思う」と言って、深々とため息をついた。人生のターニング・ポイントを回ったひとりの男が、「大きな忘れ物をした気分」について――表面的にはサラリと冗談に紛らせた口調で漏らしたのだ。その気持ちは、私には痛いほどよくわかる。

 そして、後ろめたいのもほろ苦いのも(小泉前首相の真似じゃないけれども)私の「心の問題」である。他人にとやかく言われる筋合いはない。健全だの不健全だのと、シタリ顔で言って欲しくない。ましてや、我々の税金で雇っている「公僕」には。

 ひらべったい表情で、手垢にまみれた言葉で語って欲しくない問題のひとつ――おそらくは代表的な問題のひとつ、なのだ。人間という存在に対する愛情と憎悪のはざまで揺れ動きながら、ひとは子供を持つ、あるいは子供を持たないという選択をする。結婚してもしなくても後悔するだろうと言った昔の哲学者がいたが、子供を持つことも同じ。乏しい脳髄を絞り上げるようにして考え、考えた揚げ句にひとはひとつの道を選択する。その責任は性根を据えてとるべきであるが、他人に、ましてやオカミに健全だの不健全だのと言われる筋合いはない。

 

〈みんなが子供を持ちたがらなくなったら、って?〉

 みんなが子供を持ちたがらなくなったら、ますます少子化が進む。それでは困る――という考え方を持つ人は(多いか少ないか知らないが)いるようだ。でも、それはためにする類の極論だと思う。「みんなが子供を持ちたがらない」なんてことが、本当にあり得ると大臣は思っているのかね。私の友人知人は、圧倒的に子持ちが多い。中には5人もの、現代では珍しい大勢の子供を持つ友人もいる(あと1人2人欲しいそうで、仲間はみんなで勝手にしろと好意的にからかっているのだが)。ついでに言うと、シングル・マザーやシングル・ファザーもいる。

 出来る限り大勢の子供が欲しいと思うのも、子供はいらないと思うのも、配偶者はいらないから子供だけ欲しいというのも個人の自由。オカミに口出される話じゃあない。子供が(できるだけ大勢でも2人でも何でもいいけど)欲しければ欲しいなりに、子供が欲しくないなら欲しくないなりに、生きていける土壌を作るだけが、あんたがたの仕事なんだってば。そして子供を産み育てたい人達の応援するために、税金の負担をする気持ちも用意も充分にあるさ。別に年取ってから、次世代の人達に養ってもらおうなんぞという下心があるわけじゃあない。未来へ希望をつなぐ投資は、今を生きている私たちの責務だと思うからだ。

 

〈少子化、別にいいではないか〉

 話があちこちブレ続けて、ようやく今日書いておきたかった話にたどりつきつつある。そう、少子化の問題。

 結論から先に言うと、私は少子化がなぜそんなに問題になるのかわからないのだ。人口が減る? 別にいいじゃん、というのが私の素朴な感覚である。人間は、絶滅寸前の生物ではない。(こんなこと言うと語弊があるかも知れないが)地球のためには少し減った方がいいかも知れないぐらいだ。パンダじゃないんだからね、大丈夫ですよ。あんまり野放図に増えすぎたので、自然に歯止めがかかっているのではないかという妄想すら抱くことがある。

 ほかの国は人口が減らないのに、日本だけが減ることに危惧を抱いている人もいるのかも知れない。でも私は――あまり日本という「国」に執着はないので、それも別にいいじゃないか、と思っているのだ。正直なところ。

 子供に毛の生えた年齢の頃、老子の「小国寡民」にちょっとだけ憧れたことがあった。浮き世のゴタゴタの中で当時の切ないほどの純粋さは失ったけれども、今でもほんの少しそれに魅かれるものはある。日本などという「国」が張る肩肘を失い、ひっそりと息づくようになった時、この国が持っていた本当の宝物が鈍い光を放ち始めるかも知れない(うへ。私も愛国者なのかなあ? 嘘みたい)。

 今夜もまた、とりとめもない戯れ言でありました。

 

コメント (15)
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