goo

常願寺川 / 常東・常西合口用水の分水工通水開始

いよいよ、稲作のスタート水田水張の時期です。
常願寺川、常東・常西合口用水の分水が開始されました。
4月20日からです。


では通水された分水工です


分水された水は常東合口用水路口へ


普段はこんな感じ


常東合口用水に通水が走ります


常東合口用水路です


第2サイフォン管と合流(小俣発電所からの排水)


第1サイフォン管と合流(松の木発電所、上滝発電所からの排水)
そして右岸の各用水路へと流れ出ます。


さて、左岸側常西合口用水路口です


水路橋


水路橋(豊水橋)の左岸から右岸方向です


橋の左岸詰めに中滝発電所(400kw)です
(常西用水土地改良区の管轄)


常西用水土地改良区には筏川・横内共同用水路にもあります。


戻ります。中滝発電所排水ともに常西用水の始まりです
水路橋、発電所排水ともども大川寺駅横の沈砂池へ流れ出ます。
明治26年完成の合口用水です。
(デ・レーケの合口用水は現在の常西合口用水のみで常東合口用水との合口ではありません)


水路橋から富山湾方向


常願寺川はここから18kmで富山湾に注ぎます。
水質評価AAの水です

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田園発港行き自転車 / 西入善駅

富山を舞台にした小説。
昨年の8月にもふれています。
宮本輝さんの小説、「田園発港行き自転車」。
北日本新聞に連載始まったときずっと読んでいました。

富山湾岸が舞台になります。そして登場人物。
脇田千春、寺尾多美子、賀川真帆、夏目海歩子、ふみ弥、甲本雪子、そして夏目佑樹。
それぞれの歩く道がタイトル「田園発港行き自転車」に象徴されていると思う。

その舞台のひとつです。
西入善駅です。現在はJRを離れてあいの風とやま鉄道です。


北日本新聞のホームページで 小説の舞台を訪ねて- が、連載されていました。


2012年9月30日のナンバー40に
  「夏目海歩子は、賀川直樹を待って、JR入善駅と西入善駅の間を何回も行き来しました。
   昼間なら普通列車は1時間に1、2本というダイヤ。」と紹介されています。



私、訪ねてみたかったのです。
聖地巡礼です。  -主人公になった臨場感-

なるほど、「感動の世界が現実の風景と重なる瞬間」

味わいあるものです。

心揺さぶられる、瞬間。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒部川の河口と湧水 / 村椿

先月17日に杉沢のサワスギを紹介しました。
そこは黒部川の右岸入善町です。
今回はここ、黒部市の河口左岸からです。

私が住む地域を流れる常願寺川、その河口に対して黒部川の河口幅は倍です。
距離は約600メートルです。


右岸に湧水あれば、当然左岸にもあります。
それは、サワスギから、南西5キロメートルの地点、黒部川左岸「飛騨公民館」にあります。
公民館入口に豊富な湧水です。
まるで、1インチの口径から噴き出す水道水のようです。
365日流れ出ます。
なんとも言えないおいしさ、まろやかな水です。


それと、ここは私の居住地域と共通点があります。
それは「村椿」という校区名です。この河口地区はもともと村椿村でした。
現在は黒部市村椿小学校として名前が残っています。
そして、私が住む立山町末三賀に村椿姓の家が何軒かあります。
先祖は、この黒部川河口左岸、村椿地区から移住されたのです。
私が住む地域は常願寺川の洪水で家屋が流出した人々が開墾に入植した場所です。
詳細は又にして、同じ急流河川の黒部川河口近くの人々も同時期に入植しました。
それは、黒部川も明治・大正時代は30回を超える洪水被害がありました。
その結果、移住されています。
北海道旭川にも多くの人が移住しました。

私の農園がある地域、耕作地は江戸時代の終わりから入植ですから、
歴史もまだ150年ほどです。

富山県は河川氾濫による繋がりが大きいですね。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常願寺川 治水の歴史 / 志道政亮

今、歴史遺産とか土木遺産とか日本近代化遺産とかの名称で国内、多数の登録が
なされています。

私の住む立山町では黒部ダムが有名です。
そして、ここ常願寺川の砂防(明治39年工事開始)もユネスコ世界遺産登録を目指す様子です。
写真は国交省の立山砂防事務所


ここ常願寺川の治水工事、明治24年に大水害発生。
(明治24年7月、岩峅寺で5メートル超の水位、堤防6660m破堤、農地流出700ha
 島村住民150戸は北海道等へ移住)
この災害、県での修復は不可能にてオランダ人技師デ・レーケ登場となります。

以前に、この災害工事の高田雪太郎を紹介しましたが、一人二人でなし得ること出来ない治水事業です。
その歴史に目を向けて研究されている方が貴堂巌(富山県近代史研究会)さんです。

土木史研究講演集vol30に論文を掲載されています。
「常願寺川改修工事における工区の特定と監督者の経歴」
ここに「志道政亮」が紹介されています。
よく調査・発掘されたと驚きです。

デ・レーケや高田雪太郎に隠れていますがこの、志道政亮ありて、の治水工事完成です。

富山県令となる国重が京都府在職のとき琵琶湖疎水の工事にかかわった技量を見越して
富山に呼び寄せた人です。
(貴堂氏曰く、南禅寺の琵琶湖疎水図に志道政亮の名が記されている)
生まれは山口藩士の子、西南戦争にもかかわり、京都府の職員となり琵琶湖疎水工事
で測量を担当した。

国重(明治16初代富山県知事)は治水の重大性を認識しており、明治16年に富山県の県令になるとともに
身近で仕事を見たことから腹心に呼び寄せたものと思われる。
大水害が発生するまで、地道に常願寺川の測量をした。
大水害後のデ・レーケと高田雪太郎を中心とする治水事業。この時、測量されていたから
事業計画が短期間で立案され実行された。

下地があってこそ1年そこそこで川筋約20kmの護岸工事も完成。

自分がいつも走る道も橋も過去、誰かの手で設計され工事され出来上がっている。
かかわった行政人、設計者をはじめ技師の人たち、その人達の手で今がある。
忘れてはならないと思う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする