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秋ケ島用水 /常願寺川

私の農園の源、常願寺川、そこから取水の歴史物語です。
今回は秋ケ島用水史を取り上げます。
なぜって、その開削は加賀藩の新田開発掛、土木技術者として有名な板屋兵四郎が
かかわったからです。そして
加賀百万石と言えどもその半分は今の富山県、越中国が担っていた。
その礎となる用水の一つだからです。

加賀藩は幕府の過分な要求に藩独特な農政・改作法にて新田開発、用水開削の技術を進歩させた。
代表的なのが金沢城・兼六園の給水元となる辰巳用水、その用水を設計したのが板屋兵四郎その人。
さらに下村兵四郎と称する人物が能登の塩田、輪島の用水を築いたとされるが、
両名は同一人物のようである。
金沢城・兼六園の通水には逆サイフォンが使われています。
常願寺川、秋ケ島用水にも二ノ口にサイフォン管が使用されました。

秋ケ島用水1641年の一ノ口と二ノ口からの流路図
常願寺川の常西・常東合口用水の取水地点横江地先


当時、用水取水口の水利工法は河川自然条件取水の関東流と石堤を用いて導水する
紀州流の二大工法があり、緩流河川と急流河川の河床条件の違いによる。

一ノ口、二ノ口の写真
一ノ口の場所は現行、国交省常願寺川水位観測所瓶岩の下流
二ノ口の場所は現行、農水省横江頭首工の上流


下図にて「フスヒ」と字名となって表示されていますが、
伏部(フスヒ)とはサイフォン管を指します。二ノ口です。


急流にて洪水に悩まされる常願寺川から取水であるからして、沈砂池ともなるフスヒを用いた
土木技術は素晴らしいものです。


本書は立山町の大畑利隆氏(昭和10年内務省土木局勤務)による昭和57年の著述です。
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