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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

 80老の野球応援 母校の伝統に感謝

2015-07-11 06:06:41 | 2012・1・1
雨で順延されていた母校の野球応援へ昨日、バスに乗り近くの球場へ杖をつきつつ出かけた。ここ数日の梅雨空とはうって変わった雲一つない青空の下、、照りつける太陽で、その昔、赤道直下のカリマンタンで求めたダヤク族の木皮の帽子も役だたないほどだ。夕刻帰宅して両腕を見たら、時計のバンド跡を残して真赤に陽焼けしていた。

残念ながら試合は10対1,7回コールド負けだったが、80歳半ばの老人にとっては、熱中症を怖れず、水分を補給しながら若い人に混じって、声を上げて応援するだけで幸せであった。僕らの高校(旧制中学)時代は、高校野球は戦争で中止されていて、戦後昭和21年に復活した第一回大会が、僕が応援に参加した初めてであったが、やはり、この時も1回戦でこの年東京大会優勝の東京高師付属中学にコールド負けしている。試合は小石川(文京区)の高師付属中学の砂利まじりの校庭であった。観客席はなく、選手の中にはユニホームがなく、ゲートルを巻いた地下足袋姿もいた。

昨日の野球は試合では大敗したが、応援では相手校を圧倒していた。さすが150年の伝統校である。平日にもかかわらず、応援席はほぼ満員。これに対して相手は都立の新設校であり、球場が学校から遠いせいあってか、あるいは最初から勝を信じていたからか、コールド勝ちなのに応援席はガラガラでほとんど応援の声も上がっていなかった。

母校の応援には、生徒のお母さんたちを中心に至りつくりのサービスだった。僕ら超OBには冷たい水を補給してくれ、凍ったおしぼりまで応援席に届けてくれた。母校の応援歌の一節に”歴史は古き○○年”とあり、僕らの時には”80年”と歌ったが、今は”150年”である。残念ながら、球場では応援歌は歌えなかったが、母校の伝統と歴史に感謝した一日であった。


    
                    

「ねむの木公園」と皇后陛下のバラ

2015-07-10 05:48:17 | 2012・1・1

昨日知人を案内して梅雨の中、東京.五反田にある皇后陛下美智子さまの生家跡の「ねむの木公園」と旧岡山池田藩下屋敷庭園跡の「池田山公園」を案内した。この周辺は江戸城に近い台地で、江戸時代には大名の下屋敷が多かったが、明治維新後は東京でも有数な高級住宅街として開発された。

僕は生まれてから昭和20年14歳まで、同じ五反田でも低地の目黒川沿いに住んでいた。僕らにとって「池田山」はお金持ちのお屋敷街で縁遠かったが、夏休みだけは、セミやトンボ獲りの絶好の場で、モチ竿を持って屋敷内に忍び込み家人から大目玉を食らったものだった。もしかすると、皇后さまの生家、正田家も僕らの被害にあったかもしれない。

その正田家は数年前、財産税の関係で処分され、品川区が整地してここに「ねむの木公園」を作った。ねむの木は、皇后陛下が作詞作曲した”ねむの木の子守り歌”に由来するもので公園内には、ねむの木が一本植えられ、陛下の名前を取った英国から寄贈されたバラ「プリンセス.ミチコ」が、雨の中、色鮮やかな花を咲かせていた(写真)

「池田山公園」は、池田藩下屋敷の庭園の一部だが、大名庭園の”泉水回遊式”で、池の周りには今盛りのあアジサイが色とりどりの花を咲かせていた(写真は公園の入口とアジサイの花)この辺りは最近緑が喪失した都心には珍しい別天地である。JR五反田駅、目黒駅、地下鉄白金台駅からそれぞれ歩いて10分ほどである。

新国立競技場建設と五輪大臣の疑惑

2015-07-09 05:57:14 | Weblog
2020年の東京五輪のメーン会場となる新国立競技場の建設費が2520億円で決まった。昨年5月の基本設計時は1625億円だったので、大きく予算は膨れあがった。その上、新競技場の目玉の一つであった開閉式屋根や1万5千人の仮設席設置費はこれに含まれていない。素人が見てもあまりにも杜撰なのに、予算案は有識者会議で了承されたようだが、文科省が現段階で確保している財源は600億円超しかないという。言ってみれば”見込発車”である。

開催まで4年余り、五輪担当遠藤利明大臣の腕の見せ所だが、その大臣の政治献金疑惑を新聞が報じている。遠藤氏の出身地山形県の選挙区の畜産加工会社の役員4人が計500万円、同氏の関連政治団体に「政治献金」していたことが、遠藤氏の政治資金報告書に載っていたとのことだ。遠藤氏は”個人献金であり、適正に処理していて問題はない”としている。しかし、時期が悪い。昔から”火のないところに煙はたたない””という諺もあり、”魚心あれば水心”ともいう。

五輪会場建設などを発注する事業体は、文科省外郭の独立行政法人の「日本スポーツ振興センタ―」(JSC)だそうだ。新国立競技場建設予算の”どんぶり勘定”をみて、果たしてこれで大丈夫なのかと思うのは多分、僕だけではないだろう。そこへきて、これを総括する五輪省のトップの大臣の疑惑である。国民が皆期待している東京五輪である。開催前からのこの騒ぎでは国際的にもみっともない。

第一次安倍内閣の時のスローガンは”美しい国日本”だった。しかし、それと裏腹に閣僚に疑惑があいつぎ短期内閣に終わった。五輪に向かって国民の気持ちを一つにする意味でも、ここは緊褌一番、五輪行政に大ナタを振るうべきではないだろうか。

”恐れ入谷の鬼子母神”消えゆく江戸の洒落言葉

2015-07-08 05:22:36 | Weblog
東京に初夏を告げる入谷の朝顔市がいま台東区の言問通りの鬼子母神(真源寺)界隈で催されている。江戸時代、この当たりに朝顔栽培農家があった頃の名残だそうだ。一時、都会化の波で農家がなくなり閉鎖されていたが、戦後復活されて今では毎年、各地から百軒以上の店が集まり、開催中(7月6,7,8日)3日間に40万人もの人が集まる。

この朝顔市に関係なく、僕は子供の頃から”恐れ入谷の鬼子母神”とい言葉を聞いていた。しかし、この駄洒落言葉の後に”びっくり下谷の広徳寺”があったのは知らなっかった。広徳寺は昔、今の台東区役所あたりにあったが、関東大震災で焼失、練馬に引っ越してしまった。江戸っ子は、こういった地名を駄洒落化するのが好きだったようで、少し下品だが”火事はどこだ、牛込だ。牛の○○丸焼けだ”というのもあった。

明治26年生まれの母親は、東京でも”在”の大崎町の生まれだったが、僕の子供が幼かった頃、昔からの駄洒落を言って笑わせていた。子供が”汚い”というと”北がなければ、日本は三角”とか、これも下品だが”たいしたものだよ。野馬のしょんべん(小便)といった類。大人になった子供たちは今でも亡母の駄洒落を憶えている。

たまたまNHKテレビの”みんなのうた”を見たら「へへののもへじ」を放送していた。「へへののもへじ」東京だけのものではないが、戦前よく東京の下町にあった木塀に落書きされていた。女の子の下町の横丁の遊びには”とおりゃんせ”や”隣のぼたん”など、江戸時代の遊びが受け継がれていた。江戸時代のものではないが、当時、男の子は舗装された道路の上に”左回り、右回り、応援団がチャチャ”の絵を描いたものだ。今では消えた戯画だが、当時の遊びのひとつとして記しておく。

安倍内閣不支持が支持を上回ったというがー。

2015-07-07 05:41:32 | Weblog
毎日新聞が7月3日-5日行った世論調査によると、安倍内閣の支持率が前回5月より3ポイント低下して42パーセント、逆に不支持率は7ポインンと増え43パーセントとなった。これは2014年、第2次安倍内閣発足以来、初めて不支持が支持を上回った数字である。先日自民党の若手勉強会で”マスコミを懲らしめろ”と発言があったが、これはそれに対するメディアの反撃なのだろうかー。他のマスコミの世論調査はどうなのだろうか。

朝日新聞は6月末の調査だが、安倍内閣の支持率は39パーセントで前回5月の45パーセントより低落したが、不支持の37パーセントより僅かに上回っている。しかし、支持率39パーセントは、やはり第2次内閣発足以来最低の数字である。読売新聞はどうか。6月末の調査では、支持率49パーセントで、前回調査53パーセントより、これも4パーセント落ちている。FNN産経の調査(6月)も46.1パーセントで、前回調査よりも7.6パーセントも低下した。いずれも支持率は低下しているが、不支持が支持を上回ったのは毎日新聞だけである。

安倍内閣の支持率低下は、安保関連法案の国会審議での”説明不足”が原因で、さらにそこへきての”マスコミ懲らし”の発言などがあるようだ。しかし、あながち政府だけを責めるわけにはいかないのではないだろうか。朝日新聞の報道では、与党第一党の民主王党が、国会審議への世論バックアップ用なのか女性向けにパンフ50万部を作り、その中で”いつかは徴兵制”と絵入りで安保関連法案の説明したそうだが、さすがに党内からも反対が出て冊子を回収したとのこと。

どうしても僕にはあの3年3か月の民主党政権の”悪夢”がいまに忘れられない。安倍政権が100パーセントとはいわないが、とてもとても民主党を支持するわけにはいかない。

後味の悪い韓国の「明治日本の産業革命遺産」へのイチャモン

2015-07-06 05:25:07 | Weblog
ユネスコに推挙されていた「明治日本の産業革命遺産」が、やっと難産の末、全会一至で承認された。先月東京で開かれた日韓外相会議では韓国の「百済の歴史遺跡群」と共に相互で協力しあい推挙することで意見が一致していただけに、土壇場にきての韓国側のイチャモンは見苦しかったし、後味が悪かった。

韓国側の代表の一人は、会議の見通しを聞かれて”五里霧中です”と答えたと新聞にあった。”五里霧中”とは”迷って方針や見込みがたたないこと”(三省堂慣用句ことわざ辞典}という意味で、元はといえば、中国古代の後漢の時代、張楷という人が、秘術を使って五里四方にわたって霧をおこし、深い霧の中で方角を惑わしたことから来ている。

まさに韓国の戦時中の”強制徴用”のイチャモンは、この”五里夢中”の策であった。明治時代の産業遺産群は、韓国側の言う”強制徴用”とは関係がない。韓国は産業遺産の中に1940年代、本人の意思に反して強制的に日本に連行され働かされたというが、当時は「日本人」なら誰でも徴用され、働かされた時代であった。それより何にも明治時代とは時代が違う。

国際会議であり交渉事である。結局なんらかの妥協点を見つけなければならないのは解かる。しかし、日本は結果的には韓国が主張する”意志に反した強制労働”を認めた結果になってしまった。これが過去の”従軍慰安婦”と同じような”五里霧中”の策に巻き込まれなければよいのだが。すでに韓国側からは”今回の決定は徴用の被害者の苦痛を記憶に残し、歴史の傷を癒す第一歩である”という声(趙外務次官)さえ出ている。
 

       

給食もなく学校に弁当を持参出来なっかった時代

2015-07-05 05:26:30 | Weblog
埼玉県北本市にある四つの中学校で、給食費が3か月滞納している家庭に対して、支払わなければ給食を停止するから弁当を持参せよと滞納家庭に連絡したところ、43家庭のすべてから支払う旨の意思表示があったという。この措置をめぐって”行き過ぎだ”という意見や”いや、当然だ”という意見などいろいろ交差しているようだ。

このニュースを聞いて僕は昭和10年代、小学生だった頃を思いだした。当時、小学校高学年では土曜を除き毎日午後まで授業があったが、給食はなかった。皆、家庭から弁当を持参したが、クラス60人の中で10人ぐらいは、子供用語で”お食べ”といって、昼休みになると、家へ昼ご飯を食べに帰った。当時は時には”お食べ”が羨ましく思ったが、今考えると、貧困など家庭の事情から弁当が持参できなかったのだ。

朝日デジタルによると、給食費未納の理由のうち家庭の貧困からというのは33.9パーセントで、残りは責任感や規範意識の欠如からだという。北本市の場合は、前もって貧困から本当に支払えぬ家庭には特別な措置を取っていたようで問題はないが、子供心を傷つけないよう格別な配慮が必要である。その点、今考えると戦前は、保護者会費にしても一律徴収ではなく、一口いくらと家庭事情に応じて集めていた。修学旅行にしても、経済的に参加できない子どたちには、別な小旅行を用意するなど気配りしていた。

学校給食を体験していない僕ら老人世代からみれば、給食は素晴らしい制度である。調べてみたら地方によって違うが月5000円程度のようである。子育て最中では負担かもしれないが、食糧難の中で育った僕らには羨ましい限りである。

東京から燕(つばめ)の姿が少なくなった

2015-07-04 05:16:30 | Weblog
ここ数日東京は鬱陶しい梅雨空が続いている。すっかり足腰が弱くなった80老は家に籠りがちだが、ベランダの窓外に雀の姿を見かけた。雨にもかかわらず元気だが、、昔、この時季になると、梅雨の晴れ間を縫うように地面すれすれに低飛行していた燕の姿を今年はみない。日本野鳥の会のHPによると、日本人の4割が、最近燕の飛来が減少しいていると感じているらしい。

燕は昔から人間と自然とが共有できる数少ない渡り鳥で、東京のど真ん中の銀座にも歌に登場していた。”柳青める日、燕が銀座に飛ぶ日”(「夢淡き東京」昭和22年)しかし、今では都会の野鳥研究家、金子凱彦氏によると、銀座に飛来し営巣している燕はほとんどなくなっているという。それでも銀座には並木があり、近くには皇居の緑が残っているからやってくるのかもしれない。

昨日早朝のNHKラジオ「マイあさだより」を聞いていたら。千葉県銚子市に住むリスナーから「あおばずく」というふくろうの一種の渡り鳥が3年続けて市内の民家に飛来して、鳴き声で”ただ今参りました”と挨拶してきたという、遠くマレーシアのあたりから来る渡り鳥で、普通は神社仏閣などにある高い木の上に巣づくりするとのことだが、ほほえましいニュースである。

東京では都市化によって緑が急激に減り、自然体系に変化が生じてきているのだろう。わが町で見かける鳥と言ったらカラスと雀と、やに人ずれしてきた野鳩だけである。燕といえば、戦前は高速の鳥の代名詞としても親しまれ、特急列車の愛称にも使われてきた。燕の飛来の減少が、都会だけの現象なのだろうか。原発事故の影響があるという説もあるが心配である。


暮らしにくくなった日本

2015-07-03 05:56:22 | Weblog
先日、戦争中勤労動員で苦労を共にした旧友たちとの集まりの模様を母校の同窓会誌に投稿するため原稿を事務局に郵送したところ、数日して”宛先人不明”の判が押され返却されてきた。よく調べると、住所の戸番の一部が欠落していた。こちらの責任だが、郵便番号は正しいし、第一、個人の住宅ではない、百年前からこの地にある学校である。郵便局が国営だった時代には考えられなかったことだ。

これに関連して母校の事務局に、所在が判らない関係者の住所を尋ねたら「個人情報秘密法」で、教えられませんとのこと。こちらが何者か判っているし、尋ねる目的もはっきりしている。僕だけではないだろう。この「個人情報秘密法」の杓子定規の解釈で、日常生活が如何にギクシャクし、不便になってきたかだ。

厚労省の国民生活基礎調査によると、生活が前に比べて”大変苦しくなった”が29.7パーセント、やや苦しいが32.7パーセントで併せて62.4パーセントが”苦しくなった”と答えている。それを裏付けるように、収入が一定のようにみえる65歳以上の高齢者世帯も平均収入も前年比8パーセント、300万5000円減である。

確かに年金から税金の一部や高齢者医療保険料が天引きされ、目引きされているが、これによって、生活全体が苦しくなってきたという実感は僕にはない。しかし、日常生活は確かに暮らしにくくなってきた。収入減だけではない。昔の日本では想像も出来なかったマナーの悪さもその一つである。路上や車中での飲食、行列の悪さetc。いちいちこれに腹をたてていれば身体に悪いので我慢しているが、暮らしにくくなってきたのは事実である。

     

71歳”暴走老人”の動機は生活苦、年金への不満

2015-07-02 06:52:28 | Weblog
東海道新幹線「のぞみ」内で焼身自殺した71歳の老人の犯人像が明らかになってきた。新聞などの情報を総合すると、老人は東京郊外の木造二階建アパートの一室に住む一人者で、犯行の動機は生活苦から自分の貰っている年金への強い不満からであった。老人は普段から周囲の人に対して”年金事務所の前で自殺しやる”と漏らしており、焼身自殺の現場に残されたリュックの中にも年金相談に関するメモなども残されていたという。

老人は日頃から”二か月に一度貰う24万円の年金では家賃や光熱費を払い税金まで支払えば生活出来ない”と言っていたそうだが、年金額からみて、年金は厚生年金のようだが、老人が言う35年間働き続けた額にしては少なすぎる。老人は故郷の岩手県から上京、盛り場で歌の流しをしていたが、芽が出ず、その後は解体会社や幼稚園も園児送迎バスの運転手など転々と色々な仕事をしていたという。しかし、不幸にも仕事先の多くが厚生年金に加入していなかったのであろう。

老人が上京してきたのは「列島改造」の時代で、地方の若者が集団就職で”金の卵”ともてはやされていた頃であった。老人も若い時には故郷に月9万円も送金していたという。バブルの時代はそうだったかもしれないが、はじけた後の不況では、老人には厚生年金に加入しているような仕事先はなかったのであろう。

事件を起こした日は老人の家賃支払い日であった。関係者によると老人は東北人らしく几帳面で家賃の滞納などなく、近所での評判もよかったようだ。古代中国では、70歳は古来希なりといい、矩(のり)を越えずともいった。しかし、今の日本は違う。71歳は”前期高齢者”で元気な人が多く、できればまだ仕事したい人もいる。しかし、職はなく年金生活に頼らざるをえない。その年金が僅かでは、将来に「のぞみ」はなく、このよう短絡的な暴走老人が出てきてしまう。超高齢者時代、考えさせられることが多い。