「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

72年前のバリ島沖海戦の現場を漂流した女性ダイバー

2014-02-18 07:26:30 | Weblog
バリ島近くのレンボンガン沖でスキューバダイビング中行方不明になっていた日本人女性ダイバー7人のうち5人が奇跡的に4日ぶりに発見された。ダイビングの現場から西に約20キロも離れたベニダ島の崖下に漂流していたのを現地住民によって救出された。残り2人はまだ行方不明だが、ただただ無事を祈るだけである。

ベニダ島は最近俗化し始めているレンボンガン島とは違ってまだ自然が残り、ダイビングにも好適地としてマニアの間では知られているようだが、戦史研究者には、バリ島とこの島との間の海峡、バドウン海峡は「バリ島沖海戦」の現場として有名だ。米国の戦史は「バリ島沖海戦」とは言わず「バドウン海峡海戦」と呼んでいる。ちょうど72年前の昭和17年(1942年)2月のきしくも今頃、ジャワ島攻略に先立ってバリ島の飛行場確保のためマカッサルから駆逐艦に守られた第48師団の支隊がバリに向かったが、この船団と米英蘭連合軍の艦隊とが海戦で日本側が勝利したのが、このバドウン海峡であった。

10数年前の事だが、バリ島の観光ガイドの一人ががサヌール海岸沖に日本の沈舟があるのに対して、バリ島海戦で沈んだ船だと説明していたと従軍世代の一人が嘆いていた。この船は1970年頃、日本の賠償で建てたホテルのセメント運搬船が御用済みのあと沈めたものだという。しかし、今や若い世代の観光客の間には、昔、この島に日本軍兵士がが駐屯したことさえ知らない者が多い。

バリ島の英雄墓地マルガラナでは毎年11月20日、独立戦争で亡くなった兵士たちの慰霊祭が行われる。この中には旧日本海軍の兵士もあり、近くには兵士の像まで現地人が建ててお祀りしてくれている。僕も日本からお線香を持参、参加したことがある。今回、日本人ダイバーの救出にあたって、バリ人の見せてくれている心からの協力に感謝するとともに、72年前の「バリ島沖海戦」で亡くなられた英霊や、独立戦争で戦死した日本兵の英霊の加護があったのではないかと思ったりした。

バリ島のスキューバダイビングの落とし穴

2014-02-17 07:26:46 | Weblog
バリ島東部のレンボンガン島沖合でスキューバダイビングをしていた日本人女性7人が行方不明になっている。現地からの報道ではうち2人は現地在住のスキューバ歴1000時間ものベテラン・インストラクターだという。捜索中で原因はまだ判っていないが、当時ものすごい雷雨で視界が悪く、しかも現場の海域は流れが速く漂流の危険があるスポットだという。

昭和41年(1966年)初めてバリ島を訪れて以来、この島の魅力にひかれ10回近くも観光に出かけているが、平成20年を最後にこの島に行っていない。その理由の一つは、かっては”神々の島”といわれ、バリ.ヒンズーの信仰に生きる人々に憧れ、また緑の多い島、とくに棚田に生きる農民の生活には、日本では失われたものがあり感動したものだ。ところが、この20年ほどでバリは急変してしまった。観光客の集まる海岸は緑が失われ、国籍不明の町とか化し治安も悪くなった。

かってはバリ島のすぐ沖合でもマリンスポーツは十分楽しめたはずだが、最近はこれに満足せず観光客は海のきれいなレンボンガンから、さらには遠くの島々に出かけるようになった。しかし、たいていの観光客は限られた日程できているので、スキューバダイビングなども旅行日程に合わせて組まれていたのではないだろうかー。南方のスコールは日本では想像もつかないほど激しい。僕も何回かこれを体験している。

ベテランのインストラクターだったら海の怖さや、スコールの激しさは十分知っているはずだ。しかし、観光客の日程も知っていて無理してしまったのではなかろうか。インドネシア人の旅行関係者は最後まで責任をもって7人の方を探すといっているが、海外での日本人の安全に責任を持つ在外公館も責任をもってこのような事件事故が再発しないよう現地在住の日本人旅行関係者を指導してもらいたい。

83歳の誕生日 100歳の戒め

2014-02-16 06:35:29 | Weblog
今日、2月16日は83歳の誕生日である。若かった頃、果たして21世紀を生きて迎えられるだろうかと思ったが、新世紀になって早や14年もの歳月が流れている。2020年の東京五輪を観るのも満更夢ではない。歳を重ねると、両親が何歳で亡くなったか気にかかるものだが、亡母は昭和51年7月7日に他界している。83歳の誕生日の2日後である。最期まで看病した老妻の話によると、5日の誕生日にはバースデイ.ケーキのクリームをなめ”色々お世話になりました”と老妻へ感謝したという。

亡父は昭和44年12月27日亡くなっている。満84歳と7か月であった。母もそうであったが、自宅で亡母と老妻に見とれられての大往生であった。亡母は亡くなった年の1月、雪道で転び腰を痛めて”寝たきり”になったが、家族の看病は7か月であった。亡父は亡くなる1か月頃前から食欲がなくなったが、最期まで大好物であった酒とフルーツ牛乳を水差しにいれ亡母から口にいれて貰っていた。二人とも家族にあまり迷惑をかけない最後であった。

この3月で100歳の誕生日を迎える先輩から近況を伝える手紙を頂戴した。「わが生涯を完了するように心がけている毎日です。欠点だらけの私の反省は一、つつしみを忘れないこと 一、腹をたてないこと 一、とりみださないこと 一、悪口をいわないこと 一、身だしなみよくすることです」

とてもとても83歳の若輩の僕はこの心境には至らない。つつしみを忘れて腹を立て他人の悪口をブログに書いている毎に日である。せめて身だしなみぐらいはただして老妻が用意してくれた祝宴に臨むことにしよう。

村山元首相はまずブーゲンビル島の慰霊を

2014-02-15 06:49:57 | Weblog
村山富市元首相が”正しい歴史認識をもつ”政治家(韓国鄭焙原首相の言葉)として歓迎を受けている。村山氏はソウルで”従軍慰安婦”とも会ってねぎらったともいう。この91歳の政治家は言葉は適切でないかもしれなが、ボケてしまったのであろう。もし、そうではなく正気ならば”国賊”と言われても仕方がない。

軍歴をみると、1924年(大正13年)生まれの村山氏は44年、宮崎県の都城の歩兵23連隊に入隊、幹部候補生(軍曹)として敗戦を迎えており戦地での経験はない。大正10年代に生まれた日本人の男性は、戦争による犠牲者が一番多く、特攻隊員はほとんどこの世代だ。村山氏より数年早くこの連隊に入隊した先輩兵士たちは、昭和18年、南太平洋のブーゲンビル島へ上陸してきた連合軍との戦闘で国ために散華している。

村山氏の年齢で、しかも大日本帝国の軍人であったならば、韓国がいうような軍人による慰安婦強制連行があった話など信じないはずである。村山氏の生まれた大分市の港町、生石港町にはかって遊郭があり、多分村山氏の青年時代には100人を越える娼婦がいたという記録がある。今でも遊郭の跡の写真がネットに載っている。村山氏が今回も会ったという「従軍慰安婦」も多分当時合法であった売春制度の犠牲者にすぎないのだ。

ブーゲンビル島では全体で2万人から3万人の犠牲者が出ているが、ほとんどが餓死だという。こんな極限状態にあっても原住民が日本兵を助けてくれたという記録がオーストラリア戦争記念館のHPに載っている(「日本の南洋戦略」丸谷元人ハート出版2012)同じ連隊の先輩たちの霊が眠り、助けを受けたブーゲンビリア島に慰霊に赴く気持ちは村山氏にはないのだろうかー。国賊まがいの韓国詣でよりは一段意義があると思うのだが。

ソチ五輪は期待はずれか

2014-02-14 06:57:22 | Weblog
ソチ冬季五輪の途中結果をどう見るか。人それぞれによって異なるがフィギュア男子ショートプログラムで初日、羽生結弦が最高得点の演技で金メダルへの期待を深めた。しかし、一方では大会前半、メタル獲得を確実視されていた女子スキー.ジャンプや男子500㍍でメタルを逸している。勝負は時の運もある。選手はみな一生懸命やっていて責められない。

小ブログは2006年2月開始したが、28日書いたトリノ五輪結果については、ただ(韓国)金6銀3銅3計11(中国)金2銀4銅5計11と記しただけだ。トリノ大会では女子フィギュア―で荒川静香が金メタルを獲得しただけだった。前回の2010年バンクーバー大会での小ブログを見ると、結果は”期待はずれ”と書いているが、この大会では銀3、銅2計5のメダルを得ている。

2002年の長野大会は金5銀3銅2計10のメダルを獲得しているが、76年のインスブルグでは獲得数ゼロ、国中大騒ぎでわいた72年の札幌大会でも”日の丸飛行隊”のジャンプ陣が金銀銅を獲得したにすぎない。他の大会をみても金を1個以上獲得したのは長野大会だけで、あとは合計メダル数でも4,5個にすぎない。

しかし、参加する以上国民は金メダルを期待する。”二位では困る”のである。国会中継をみていたら野党議員から早くも2020年東京五輪への選手強化対策が出ていた。どうもわが国は、選手の周辺を甘やかす傾向がある。とくにマスコミは人気が先行しすぎるのでは。ソチ空港で韓国のマスコミが、自国の選手に気配りして警備の上で自己規制していたが、日本のマスコミはどうなのか、恥ずかしい。

高齢者の踏切事故 「踏切番」を復活しては

2014-02-13 06:50:31 | Weblog
昨日、横浜市内の相鉄線鶴ヶ峰ー二俣川間の踏切で高齢者が電車にはねられ死亡した、とネット情報にあった。詳細を確認しようと朝刊を見たら一行も載っていない。高齢者が踏切を渡りきれずに死亡したのかどうかは不明だが、昨年来東京首都圏内では、踏切での事故があとを絶たない。たしか同じ相鉄線沿線でも昨年11月、同じような事故があったばかりだ。相鉄線沿線には踏切が9か所あり、現在高架工事によって廃止する計画があるそうだが詳細は判らない。

僕の住む町にも踏切があるが線路が二つだけで、遮断機と警報があれば安全に渡りきれる。しかし、場所によっては幅が40㍍もあり、とても杖をついた老人では遮断機のあいている時間内に渡るのは困難だ。しかも、そういう踏切に限って”開かずの踏切”で往来が激しく、年寄りには苦行である。鉄道会社はそれなりに対策を考えているが、最上の策はない。しかし、人命にかかわることだ。昔のような「踏切番」制度を復活しては、どうだろうか。

戦前昭和12年から18年まで、僕は家から学校まで山手線の五反田―目黒間の踏切を渡って登下校した。踏切には複数の「踏切番」のおじさんがいて、僕たちの安全を見守ってくれた。当時は今に比べれば電車の本数も少なかったが、時には雪国から来た貨物列車が屋根に雪を山のように積んで長い連結で通り、長時間待たされることもあった。しかし、この踏切だけでなく、どこでも踏切事故はなかったのでは。

超高齢化時代で、年寄りの中には認知症もいるようである。本来は踏切などないほうがよい。しか現実には、今すぐなくすことができない以上、暫定期間でも「踏切番」制度を復活すべきではなかろうかー。

小泉元総理のカーキ色のダウン.ジャケット

2014-02-12 05:57:23 | Weblog
「脱原発」ワン.イッシュ-(単一問題)で都知事選で細川護煕候補を応援してた小泉純一郎元総理の街頭演説をテレビの画面でみて気になることがあった。それは二人とも若者ぶってダウン.ジャケットを召されてたが、小泉氏のカーキ色が僕ら戦中世代には、ちょっと気になった。昭和1ケタ前期から、それ以前に生まれた日本人にとって、カーキ色にはある種の思いがある。

昨年暮入院中の病床で「鞍馬天狗」の作家大佛(おさらぎ)次郎の戦後の作品「帰郷」を読んだが、その中にこんな記述があった。「自分が久しく着せられて生活したせいもあるが、現在ではカーキ色には、本能のように嫌悪と憎しみを感じてきている。よくある色の中で一番日本人の心を暗くする色のように信じている」「帰郷」は昭和23年に毎日新聞に連載された小説で、当時大佛次郎は48歳であった。

小泉氏は72歳、しきりに自分を老人呼ばわりしていたが、実際はまだまだ若いと思っているのだろう。若くなければ、申し訳ないが今回のような”政治ごっこ”に出るわけはない。都政は「脱原発」一つの問題ではない。結局、細川,小泉元総理の陣営は当選した升添要一氏のの半分の票を得られず落選した。カーキ色に嫌悪感を持つ、超高齢者層の影響があったとは思えないが、なんだか政治家にも旬があるように思えた。

安倍晋三総理は、小泉氏よりさらに若く戦後の昭和29年生まれである。恐らく戦後のある時期、大方の日本人が大佛次郎と同じ思いをしていたことなど知らないだろう。しかし、敗戦に打ちし委がれた当時の日本人が、カーキ色にこんな思いがあった事は事実であった。

建国記念日 安倍総理はメッセージより祝典を

2014-02-11 05:46:33 | Weblog
「日本の繫栄を希求」-今日2月11日、建国記念日に当たり安倍晋三総理が国民へのメッセージを発表した。政府が建国記念日にメッセージを出すのは歴代政権で初めての事。建国記念日は昭和42年(1967年)祝日法により”建国を偲び国を愛する心を養う”意図から、戦前の紀元節の日と制定された。しかし、残念なことに、その精神はまったく形骸化し、国の奉祝典さえ行われていない。

戦前紀元節を祝った世代も少なくなった。紀元節は神話に基づき、ニニギノミコトが高天原から高千穂に降臨し、その曾孫にあたる神武天皇が橿原の地で初代天皇として即位した日である。紀元節の日は授業はなく、学校でこれを祝う式典があった。御真影が飾られた式場で国旗が掲揚され「君が代」と式典歌”雲にそびゆる”を合唱、校長先生からの話があって紅白の饅頭を貰った。そして、子供ながらに建国の遠い昔を偲び、国の繁栄を祝ったものだ。

紀元節が戦後連合軍によって廃止され、昭和42年「建国記念日」として復活した直後は、僕の記憶では国の後援による奉祝行事があったような気がするが、今は一部の民間団体が主催しているだけだ。世界各国には、建国を記念した祝日があるが、日本のように式典もなくなにも行事ががない国は珍しいのではないかー。

先日,ソチの冬季五輪の開会式の模様をテレビでみて、ロシアの大地を切り拓き歴史が始まる壮大な画面「ロシアの夢」にそれなりに感激した。画面を通じてロシアの歴史や伝統文化を誇示する姿勢が覗えた。しかし、この国には建国の歴史がないのである。しいていえば1991年、ロシア共和国がソ連邦からの主権を宣言した「ロシアの日」である。

わが国には、神話にせよ2674年の歴史がある。これは誇るべき悠久の歴史である。自民党は「建国の日」を政府主催で行うことを公約している。自民党総裁の安倍総理はメッセージではなく、堂々と記念式典を主催すべきだ。

高齢者には事前の投票予備日を

2014-02-10 07:54:49 | Weblog
70年来の幼馴染からメールが入り、雪道を往復40分かかって都知事選の投票に行ってきたという。幼馴染は昨年渋谷の歩道橋の上で転倒、腰を強打、最近まで病院通いをしていた。たいした元気である。これに引換え、僕は結局生まれて初めて投票を棄権した。雪の降る合間を見て行こうと思っていたが、周囲の家人が許さない。2か月前手術して、まだサポーターをつけ杖の世話になっている僕を見れば許さないのは当然かもしれない。

都知事選の最終投票率は46.15%と前回平成24年に比べて16.45%も低かったという。元総理、閣僚、弁護士会長、自衛隊幕僚長と多彩な候補が立候補し話題には事欠かなかったが、何分、東京では45年ぶりの大雪である。雪道が投票を阻んだのは間違いない。僕もその一人である。

期日前投票制度があって、投票所が老人クラブにあると、クラブで習い事をしている女性は事前に投票するらしい。ところが老人クラブにあまり行かない男性にはその機会がない。また「不在者投票」という名前が邪魔をして、気真面目な人の中には”不在”でもないのに事前投票はいけないと誤解している人もいるらしい。

高齢者になると、体調が一日一日変わる。また今回のように天候が急変することがある。どうだろうか。高齢者には投票日とは別に事前に高齢者用の投票日を設け、どちらでも投票を許可したら。また老人施設に入所している高齢者に対しては、特別な出張投票制度を考えてはどうなのだろうか。これからの超高齢者時代を考えて検討に値するのではないだろうか。

NHKの緩んでいたボルトやナット

2014-02-10 06:50:54 | Weblog
今回の大雪から僕は前回東京に大雪警戒が出た2001年(平成13年)1月22日の事を想い出した。僕はこの日大雪の中、NHK.ETV番組「戦争を裁く」(3回シリーズ)の放映中止を求めて、NS大学教授らと一緒にNHKへ抗議に出かけた。この番組は前年12月、東京の九段会館(元軍人会館)で開催された模擬法廷「女性国際戦犯裁判」をテーマにしたもので「裁判」では”日本軍性奴隷”について天皇を含む加害者に対し有罪判決を下していた。

僕はこの模擬裁判の傍聴を希望したが断られた。そこで開催初日の12月8日、9日と最終日の12日の3日間、知人のチベット問題の権威、NS教授らと共に会場の九段会館前での街頭集会に参加した。この模擬裁判はYMという朝日新聞のOGらが主催したもので、NHKの子会社の現役女性プロジューサーも運営委員の一人として参加していた。NHKは、この模擬裁判を一般ニュースで報道し、朝日新聞は大きく報道した。

NHKは僕らの抗議を暴力右翼の行動と見たのであろう。1階のロビーは厳重な警備体制で、苦言聴き係の「ふれあいセンター」の職員までが、まるで組合運動の団交のようにピケまで張った。僕らは責任者に会い「戦争を裁く」番組の放映中止を求めたが応じなかった。結局番組は放映直前の1月30日、一部手直しされてオンエアされたが、それでも公営放送の内容ではなかった。

僅か13年前、こんな番組がETV(教育)の名の下に大手を振って放送されていた。その後も2009年放送された「Japanデビュ」の中の日本の統治下の台湾を扱った偏向番組「アジアの一等国」も公営放送の番組ではない。NHKは確かにボルトやナットは緩んでいる。籾井会長、雑音に耳を貸さず頑張って欲しい。