「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

富田朝彦 後藤田正晴 中曽根康弘

2006-07-21 06:15:52 | Weblog
富田朝彦・元宮内庁長官の昭和天皇”A級戦犯合祀”メモが波紋を
呼んでいる。小泉政権交代を控え、いわば、わが国にとっては政治の
曲がり角。これを狙い撃ちするかのような"昭和史大発見”と僕には映った。

富田朝彦(以下人名敬称略)は東京帝国大学(東大)卒業の内務官僚
出身、戦争中は海軍短期現役(短現)10期出身の主計大尉、警察庁を
を経て宮内庁長官を約10年勤めている。赤軍の”浅間山荘事件”の時
は後藤田長官の下で警備局長であった。

後藤田正晴も東大卒業の内務官僚、戦争中は陸軍の主計大尉であった。
警察庁長官を経て政界へ。同じ内務官僚出身の中曽根康弘が総理大臣
の時官房長官と総務庁長官を務めている。宮内庁は総務庁管轄下である。

中曽根康弘も東大卒業の内務官僚。戦争中は富田朝彦と同じ海軍短現8
期出身の主計少佐であった。海軍短現は当時”秀才”の集まり、戦後は
政財界の指導者を輩出しており、団結力が強い。

天皇陛下の靖国参拝中止、そのあとの中曽根総理自身の参拝中止など
今回の”富田メモ”で僕にはある程度読めててきたが、いま、何故この
時期を狙って新聞一社だけに発表したのだろうかー。だれが新聞社にこの
”メモ”を持ち込んだのだろうかー。



ケネデイ君からの手紙

2006-07-20 05:46:12 | Weblog
数年ぶりにケネデイから手紙をもらった。ケネデイといっても米国35代
大統領ジョン・F・ケネデイ大統領の一族ではない。スマトラ(インドネ
シア)メダンに住む、かっての教え子のケネデイ君からである。
1997年、僕はインドネシアの友人に頼まれて、4か月メダンの外国語
学校で日本語を教えたことがあるが、彼はそのときの生徒の一人である。

ケネデイ君はインド系のインドネシア人である。多分本名もあると思うの
だが、学校ではケネデイと呼ばれていた。オランだ時代労務者としてメダン
へ沢山南インドから移住してきた。彼のご先祖も、その一人である。彼は
日本語のクラスでは、抜群に好く出来た。数年前までは難しい漢字を駆使
した立派な日本語の手紙を頻繁によこした。

暫らく便りがないので心配していたが、バンカ島へ働きに出かけていたのだ
という。メダンには就職口がないため比較的仕事がある、シンガポールに
近いバンカ島で力仕事をしたが、身体をこわし帰郷したのだという。
彼の手紙の骨子は、せっかく学んだ日本語だから、日本に関係のある職に
つきたい、できたら日本に留学して大學の先生になりたいというのである。
彼に限らず、相変わらずインドネシアの若者の間では、日本語の学習熱が
高いのだが、問題はせっかく学んだ日本語を役立つ仕事がないことだ。
なんとかならないものだろうか。








ジャワ地震・津波と徳川義親侯

2006-07-19 06:15:03 | Weblog
またもやジャワで津波の被害が出ている。一昨年12月のスマトラ沖地震・
津波、今年5月のジョクジャカルタ地震、たて続けの被害である。地震国の
宿命だが、改めて自然の脅威を感ずると共に、過去の経験が生かされなかっ
たのはー残念である。

戦前”トラ狩りの殿様”として知られた徳川義親侯は二回ジャワを訪れ「じ
ゃがたら紀行」を書いているが、地震・津波の記述が二つある。一つは第1
回の旅(大正10年)でジョクジャカルタを訪れた時、タマン・サリ(水
城)が1867年の地震で破壊され荒廃したままなのをみている。二つ目
は、2回目の旅(昭和4年)太平洋学術会議に出席したあと、クラカトワ
火山まで足を伸ばしている。クラカトワ火山はジャワとスマトラとの間の
スンダ海峡にある小島で、1883年8月大爆発し、この時発生した津波で
3万6千人が死亡している。偶然だが,侯は今回の津波で被害がでたチラ
チャツプへも沼沢植物調査に参加している。

昔からインドネシアは、わが国と同様地震国なのである。クラカトワ爆発
では、火山灰が成層圏に舞い上がり、そのあと数年世界の気象に影響を
与えたといわれている。
スマトラ沖地震・津波は僅か20か月前の出来事である。あの時あれだけ
必要性が叫ばれた早期警報システムなどが今回の津波のさい生かされなか
ったのは残念である。わが国の対インドネシア援助は相手国の国民に役に
たつものに絞って行うべきである。インドネシアの政治家のふところを肥
やしても何にもならない。


楽園都市ドバイが秘境だったころ

2006-07-18 06:41:13 | Weblog
知人の槙島公さんから「ドバイがクール」(三一書房=03-3812-31-31)という
本を頂いた。1977年から湾岸諸国、とくにUAE(アラブ首長国連邦)、
ドバイに関係されてきた方の本だけに”世界ナンバー1ずくめの楽園都市”
ドバイのAからZが紹介されていて実に面白い。かっては”海賊海岸”の
砂漠の中の一、ドバイが今や近未来都市をめざし飛躍中、その姿は
驚きであり、現代の奇跡でもある。

わずか44年前のことだ。僕がアラビア石油の取材の途次、ドバイに立ち
よった時は空港もなかった。(隣の首長国、シャルジャに降りた)ホテルも
なかった。小さなスーク(市場)があるだけ、町中をロバが往き来し、飲料水を
売っていた。王宮を取材するため入江を舟で行くと、トビウオが飛び込んで
きた。

槇島さんの本によると、ドバイ市内には世界一高層のホテルが建ち、六つの
滑走路(4,500m)を持つハブ空港が建設中、300もの店舗を持つ超近代
的なショッピングモールもあり繁盛している。”The world"という世界を
模した観光スポットも建設中、人口のスキー場さえある。昔のドバイを知る
者にとっては、ただただ驚きである。

”石油資源にはかぎりがある”という、先代の首長の先を見越した構想の
下に始めたドバイのプロジェクトは成功しているようだ。かっては中東の
経済センターであったレバノンは、内戦と戦火のために、その機能は今や
完全にドバイに奪われた。






二つのコールド試合 1946年、2006年

2006-07-17 07:08:56 | Weblog
きのう母校の野球部は緒戦に快勝した。しかもコールド勝である。
応援の75歳、76歳の超オールドボーイは、娘のようなお母さん、
孫のような生徒たちと一緒に勝利の冷茶を飲みあった。

昭和21年〔1946年)戦後復活中等野球大会、東京予選で我が
母校はきのうとは逆にコールド負けしている。相手はこの年の東京
代表になった東京高師付属中学校である。球場は同校の文京区の
校庭であった。内外野とも砂利まじりのグランド、校庭の端に立った
ままでの応援であった。わがチームにはユニフォームはなく運動靴を
はいてのプレイであった。格好をみただけで負け、それでも4,5点は
得点した記憶があるがー。

戦争中野球は敵国のスポーツだとして、中等大会は禁止されたが、
子供たちには関係なかった。僕らは動員先の工場の昼休みに東海道線の
線路を横切って、芝生の上で野球をした。グローブもミットもない時代、
テニスの球を使った素手の野球だった。

緑の設備の整った球場で白球をおえる今の球児たちは幸せである。
彼らと同年だった、昭和23年、僕の通っていた大学予科(高校3年)
では、6月1日から8月31日まで長い長い夏休みだった。先生も
学生も弁当を持参できなかった時代である。コンビニでおにぎりなど
売っていなかった時代である。

東京初のゴルフコース跡  駒沢

2006-07-16 06:01:58 | Weblog
きょう母校の高校野球の試合が駒沢球場で行われる。旧友と一緒に
応援に駆けつけるが、僕らが卒業した当時は「高校」ではなく「中
学」(旧制)であった。58年もまえの昔のことだ。
僕らの世代には駒沢球場の名前は懐かしい。といってもきょう試合
がある球場ではなくて、同じオリンピック公園内の別の場所にあった
”東映フライヤーズ”(今の北海道日本ハム)のフランチャイズ球
場である。昭和28年から37年まで9年間、フライヤーズ主催の
試合があった。土橋正幸、山本八郎,張本勲,毒島章一らの面々がい
て”駒沢の暴れん坊”の異名があったころだ。

新婚まもない僕ら夫婦も自宅から歩いて球場へ出かけた。当時球場
周辺は畑が残っていて、僕らは野道の雑草をかきわけかきわけて
いったものだ。球場内も閑散としていて,鳴り物入りの応援もなく場内に
球音が快く響きわたった。

もともと、駒沢オリンッピク公園は、東京ゴルフ倶楽部の駒沢コース
があった場所だ。東京で初のコース(9コース)として大正3年から
昭和7年まで開業していた。テロで暗殺された井上準之助・元蔵相ら
の財界人が一口2千円で造成した手造りのコースだった。盛業中は
近くの自由が丘駅からキャデイ・バスも出ていた。

僕ら夫婦が駒沢球場に足を運んだころは、まだ昔のゴルフコースの
面影も残っていた。戦後まもないころは,旧クラブハウスも残存し、
外地からの引揚者住宅に使われていた。僕らが野道と思ったのもカー
ト道の跡だったのかもしれない。
今でも公園内を散策すれば、かってのコース跡と思われる樹木に境い
された直線道を見つけることが出来る。

"火に油" 無i意味な小泉中東外交

2006-07-15 05:53:33 | Weblog
レバノンのベイルートはかって"中東のパリ”といわれた。昭和37年僕は取材で
この町を訪れ、オープン・カフェでお茶を飲んだ。このべイルートがイスラエル
軍の陸海空からの攻撃を受けて破壊されている。
名目は同国内の反イスラエル組織「ヒズボラ」がイスラエル兵士を拉致して
返さないということだ。折も折、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンを訪問
した小泉首相が日本独自の中東和平提案を行った。現地からの報道は、これを
”若葉マーク”提案と評しているが、僕にいわせれば無謀運転、カネの浪費に
すぎない。


中東和平の難しさは、パレスチナ戦争いらい半世紀以上経過しているにもかかわらず、一向に改善されないことからも判る。宗教的な怨念がからみ、かっての宗主国さえ解決に手を焼いている。、
わが国は欧米と違いアラブ、イスラエル双方に利害関係がない。だから独自提案というが、果たしてそうだろうかー。今回のイラク戦争のわが国の政治姿勢をアラブはどう評価しているかー。”頂くものは頂く”というのが彼らである。今回の北朝鮮非難決議案にもろ手をあげない彼らのしたたかさをみればわかる。

インドネシアのユドノヨ大統領は、この時期予定していた北朝鮮訪問を延期した。
賢明である。日米、中国、ロシアの同国に対する政治的影響力を勘案してのことだ。
これに反して小泉外交は、政治的パーフォーマンと外交日程の消化にすぎない。中東外交は”プレスリー外交”みたいに一筋縄ではゆかない。
われわれの血税をかれらにやっても”ざるに水”である。


遺品を相撲博物館に寄贈

2006-07-14 06:03:21 | Weblog
双葉山時代、相撲記者をしていた亡父の遺品を相撲博物館に寄贈した。
遺品は父が記者時代収集した品々を二つの屏風にしたもの。屏風には
昭和5年皇居で行われた天覧相撲の番付と取組、神通力国吉の錦絵、
戦前の「双葉山 鯱の里」といった行司の土俵上のふれ取組、当時の
大入り袋、太刀山の引退挨拶状などなどが張ってある。屏風そのものは
何回もの引越しで使い物にはならない。相撲博物館の学芸員の話では
このうちの何品かは博物館にないものもあるという。

昭和天皇の皇居での天覧相撲は昭和5年と6年、皇居内の覆馬場で行
われている。この他にも水交社で 催された海軍の特別相撲にも数回
お出ましになっている。皇居での天覧相撲では、特別な番付や取組も
作成されている。番付には「蒙御免」の文字に代って「賜天覧」の
文字がみられる。戦前は天皇は”生き神様”という考方があったので、
現在のようにご夫妻で本場所に御出かけることはできなかった。

神通力国吉は天保7年(1836年)から9年まで三場所番付にのっているが
全休、土俵入りだけ行っている、7歳で75キロ、9歳で84㌔という
記録が残っているので、当時としては超大型児、多分、客寄せパンダ
として番付にのせた、のだろうと学芸員はいっていた。多分、いまなら
このぐらいのスーパー児はざらにいるのではなかろうかー。

二人で150歳 新宿の夜

2006-07-13 05:57:21 | Weblog
昨夜タクシーで家へ帰ったのは11時近かった。中学時代の親友のおごりで
新宿三丁目の高級クラブで、したたか酩酊した。二人の年齢あわせて150
歳、孫のような若い女性を隣に侍らせて痛飲した。むかし、二人が若かりし
ころ"Too young"という歌が流行したが、本当に二人ともお若いです。

親友は旧制中学を出てすぐ実社会に飛び込んだ。日本が”いとへん"(繊維)
や"黒いダイヤ”(石炭)景気でわいていたころである。以来50数年自力で
今日の地位を築きあげた苦労人である。したがって女性との会話も巧妙で、
適当に喜ばせる術を知っている。一方、僕はといえば、ただひたすら飲む
だけである。

高級クラブは新宿三丁目にあるが、隣接の二丁目はかって日常会話で若者が
使用するのは憚れた。昭和32年4月。売春禁止法が施行されるまで、赤線
地域といって堂々と売春行為が行われていた。仕事で二丁目に出かけても
うっかり"きのう二丁目に行ってきた"などというと誤解され、ニヤニヤされた
ものだ。

あれから半世紀ちかくわが国では、売春ばかりか買春行為も禁止された。
二丁目ももちろん、むかしの面影はない。新しいビルが林立する新しい町に
生まれ変わった。変わらないのはおろかな男性だけ。人間の業なのかー。
最近も横綱後援会会長が、売春禁止法で警察に逮捕された。

寂しい東京の盂蘭盆

2006-07-12 06:20:15 | Weblog
首都圏の盂蘭盆は新暦の7月15日前後である。大体は15日を挟んで
5日ぐらいではないだろうかー。東京では昔と違って家庭で盂蘭盆の
行事をする家庭がめっきり減った。したがって寺町の界隈でも行かない
限り、いまお盆であるかどうかわからない。

東京でも昭和30年代はじめ頃までは,ナスやキューリで精霊馬(牛)を
つくり、麻幹(オガラ)を焚いて迎え火(送り火)をしたものだった。
この期間、どこの家庭でも、仏壇には季節の果物や菓子を供え、夕方に
なると盆提灯に火がともるなど、なんとなく普段とは違う空気で、それが
夏休み前の一つの風物詩ともなっていた。

盂蘭盆の家庭での行事が東京の街から消えたのは、”列島改造”で各地
から東京に人が集まってきたのと関係がありそうだ。首都圏を除けば
盂蘭盆は一ヶ月遅れの8月に行われる。そして、この時期ほとんどの人が
故郷に帰ってお盆休みを楽しむ。新暦の7月にはお盆の行事はしない。
信仰心の薄くなった東京原人も、これにならって盂蘭盆の家庭での行事
をしなくなった。

日本伝来の行事だっただけに残念である。なんとか復活させたい。
”おしょろさん”といっても東京の子供たちにはわからなくなった。