昨日は二十四節の一つで地中の虫が目を覚ますという啓蟄。春の到来を告げる日
なのだが、今年の首都圏はここへ来て春が足踏みをした感じだ。一昨年、小ブログ
は、啓蟄の日にわが家で目を覚ましたガマについて書いたが、今年はまだその姿に
お目にかからない。どうしたのであろうかー。
わが家の”猫の額”ほどの庭には、半世紀も前、老妻が嫁いできた頃からガマが共
生している。ガマの生態について知らないが、近くに川や池がないのに不思議だ。
啓蟄の頃になると枯れ草の下から姿をみせる。あまり格好はよくないが、長いおつ
きあいで、愛着を感じるようになった。
すっかり宅地開発で自然が消滅した都会は、生き物にとっては酷で可哀そうだ。毎
年、梅の咲くころにはやってきた鶯も昨年あたりからその鳴き声をきかない。宅地開
発で庭の梅の木が伐られてしまったからだ。つがいでやってきていた山鳩の姿もみ
ていない。鳥の鳴き声はゴミをあさるカラスだけだ。
昭和30年代まで、わが家の周囲にはまだ自然が残っていた、藁葺きの農家も散見さ
れたが、宅地開発がすすみ屋敷林だったケヤキやセンの木が惜しげもなく伐採され
た。道路は舗装化され、小川は暗渠となってしまった。これでは生き物の住む環境で
はないのだろう。夏場、羽化したばかりのアブラゼミが羽をバタバタさせてコンクリート
の路上に倒れている姿を見かける。老妻が昨秋、駐車場脇の溝で干からびたガマ君
の死体をみたという。もしかするとガマ君一家は途絶えてしまったのかもしれない。
なのだが、今年の首都圏はここへ来て春が足踏みをした感じだ。一昨年、小ブログ
は、啓蟄の日にわが家で目を覚ましたガマについて書いたが、今年はまだその姿に
お目にかからない。どうしたのであろうかー。
わが家の”猫の額”ほどの庭には、半世紀も前、老妻が嫁いできた頃からガマが共
生している。ガマの生態について知らないが、近くに川や池がないのに不思議だ。
啓蟄の頃になると枯れ草の下から姿をみせる。あまり格好はよくないが、長いおつ
きあいで、愛着を感じるようになった。
すっかり宅地開発で自然が消滅した都会は、生き物にとっては酷で可哀そうだ。毎
年、梅の咲くころにはやってきた鶯も昨年あたりからその鳴き声をきかない。宅地開
発で庭の梅の木が伐られてしまったからだ。つがいでやってきていた山鳩の姿もみ
ていない。鳥の鳴き声はゴミをあさるカラスだけだ。
昭和30年代まで、わが家の周囲にはまだ自然が残っていた、藁葺きの農家も散見さ
れたが、宅地開発がすすみ屋敷林だったケヤキやセンの木が惜しげもなく伐採され
た。道路は舗装化され、小川は暗渠となってしまった。これでは生き物の住む環境で
はないのだろう。夏場、羽化したばかりのアブラゼミが羽をバタバタさせてコンクリート
の路上に倒れている姿を見かける。老妻が昨秋、駐車場脇の溝で干からびたガマ君
の死体をみたという。もしかするとガマ君一家は途絶えてしまったのかもしれない。
都会から土がなくなりました。暖冬もあって今や”霜柱”を踏むなんて体験が出来なくなりました。
白金の自然園の付近が子供の頃の遊び場で、聖心女学院の庭でよく”おたまじゃくし”を取ったものです。今は多分あのあたりも都会化されてしまったでしょう。自然の破壊が人間の心にも影響があるのではないでしょうか。
女性は蛙嫌いな方が多いですね。それなのに蛙の話ですみません。
田植えの頃ですか、蛙の合唱が聞かれますね。僕はあれが好きです。
富山はまだ市外は自然が残っていて羨ましいです。今の子供達は”おたまじゃくし”が蛙になるまでの実験などしないのでしょうか。
住宅街だったのに、なんでこんな生き物が!?と驚いたものですが、引越してしまったので今はどうなっているのか。
子供の頃には、雑木林や空き地があったりしたものですが、今は片田舎でも住宅が密集して空間がありません。
こんなに人がいるのか!?と驚くくらいの住宅の過密ぶりです。
親子が同居しなくなって住宅が必要になったのか判りませんけど、相当な田舎に行かなくては土を見ることはありません。
いつからこんな状態になったんでしょうね?
街に木がなくなったことで、四季の移り変わりもよく判りませんね。
ただ、私は花粉症なので春の訪れには敏感です。笑
毎日クシャミが止まりません。
こうやってコメント打ってる最中も想像するだけで鳥肌が立ってます(笑)
そういう環境のこちらでも蛙は減っているそうです。
そういえば、こちらでは先日、なぜか突然、小川をコンクリートにする工事してました。なんでこれだけ環境保護がうるさく言われてるのに、逆行して進めるのかなー。
それに、今年度から燃えるごみとプラスチックごみの分別がされなくなっったんですよ。理由は、プラごみを燃やしてもダイオキシンは発生しないことがわかったから。と書いてありました。富山市はよくわかりません。