毎年、春の彼岸が近くずくと、きまって74年前のわが家の強制疎開を想い出す。このブログでも扱ったことがある(検索 老人タイムス強制疎開)が、最近、この疎開が3月10日の東京大空襲から5日後の閣議決定によるものだと知った。
当時の亡父の日記帳(写真)によると”突如として疎開の話あり、善後策を迫られる(16日)”町会より正式通知あり(17日)”町内、引っ越しの準備で騒然、戦場のようだ”(19日)とある。そして、わが家は、バタバタと知り合いから荷馬車を二台借り受け(21日)当時住んでいた五反田から5キロほど離れた今の柿の木坂の借家に引っ越してきた。
10日の大空襲で東京のインフラは壊滅したかと思っていたら、父は空襲の翌11日には蔵前にあった叔父の家の類焼見舞いに出かけている。山手線で秋葉原まで行き、帰りは,切符が買えず、有楽町まで歩き、市電で帰宅している。しかし、情報は混乱しており,10万人もの犠牲者が出ているという認識はなかった。
戦場のような疎開の中でも、父は近所の八百屋のお通夜に列席(21日)しており、この混乱の中で、母方の本家の従兄には応召令状が来て壮行会が行われたりしている。長い人生の中でも忘れられない1週間だ。
上野は焼野原だったらしいですが、山ノ手はあまり影響がなかったのでしょうか。
この時期、市民は敗戦を感じていたのでしょうか。
10万人もの犠牲者が出たのに父の日記では翌日から山手線に乘って五反田から秋葉原らまで出かけ、有楽町(日比谷))から都電で五反田まで乗っています。今ではちょっと考えられません、さらに13日には、家の近くの国民酒場でいっぱい飲んでいます。僕も疎開の日は動員先の工場は休んでいますが、すぐ池上線で五反田から蒲田まで通勤しています。いくら戦時下とはいえ、住んでいる家を1週間で立ち退けとは無茶な時代でした。