「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         あるインドネシア料理店主の名誉の死

2012-01-22 08:06:33 | Weblog
70年前の昭和17年1月、日本軍はシンガポールを目指してマレー半島を南にむかって電撃作戦を展開中だった。「密林とゴム林が無限に続くただ一筋の舗装道路をわが機械化部隊は英軍をけちらしながら寸暇の休みもなく進撃した」(昭和18年度文部省国語教科書(8)「マライを進む」)。前年の12月8日、マレー半島上陸に成功した第25軍の第5、第18、近衛3師団は僅か55日でマレー半島を席巻、シンガポールを占領した。第5師団給水部隊の一兵卒、中島慎三郎上等兵もその一人だった。

中島慎三郎さんが昨年11月23日亡くなられた。92歳の高齢であった。中島さんは数年前まで新橋にあったインドネシア料理店「インドネシア・ラヤ」の店主だったが、もう一つ「アセアンセンター」(民間機関)の理事長の肩書を持っていた。日本会議研究員の江崎道朗氏によれば、中島さんは”大東亜戦争の理想を忘れず民間人でありながら福田赳夫元首相らのブレ―ンとして対アジア外交を担いインドネシアの共産化を阻止した人物であった”(別冊「正論」16号)

僕は中島さんと20年来の知己だが、驚いたのは彼の流暢なインドネシア語は学校で学んだものではない。戦争中、中島さんは当時豪北と呼ばれていたアンボン、セラム島に駐屯していたが、彼はその地で現地の人から学んだものだという。インドネシアから復員してきた兵隊さんの中には片言のインドネシア語をしゃべる人はいるが、中島さんのは本格派であった。

中島さんは戦後昭和22年に復員してきたが、当時の東京はまだ焼跡が残っていた。職のない中島さんは奥さんの家の花屋を手伝い、奥さんと一緒に花をリヤカーに載せて繁華街を売り歩いた。そして稼いだおカネを元手に小さなインドネシア料理店を開いた。店の手伝いには戦争中日本に留学にきて戦後の混乱で帰国できなかったインドネシア人が当たった。平成9年、僕はメダンでその当時の留学生の一人と知りあったが、彼はくれぐれも中島さんによろしくと言っていた。昨年11月、僕が中部ジャワのテマングンでお世話になった元ジャワ義勇軍士(86)も中島さんのことをよく知っていた。

戦前の日本には、中国やアジアの独立運動を支持して私財を顧みなかった志士がいたが、中島さんはある意味では、その最後の志士であった。


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2 コメント

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残念 (chobimame)
2012-01-23 16:05:36
またひとつ歴史が消えたような気持ちになります。生きた証言はなによりも大事です。このような貴重な証言を広く学校などで扱って頂きたいものです。戦争体験者がいなくなれば、今の日本では本当の歴史が消えてしまいます。残念です。ご冥福をお祈り致します。
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新宿中村屋 (kakek)
2012-01-23 17:03:33
chobimame さん
戦前は独立を目指して日本に亡命中の志士がたくさんいたそうです。またこれらの志士を援助した日本人もいたそうです。新宿中村屋の創始者相馬夫妻もインド独立の志士ビハリ・ボースを援助したそうです。その当時、ボースから教わったカレーが今中村屋の名物の「インドカリー」です。昔は意気に感じる日本人がいたのですね。中島さんもよくインドネシア人の面倒を見ていました。
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