亡父の日記を読み直してみたら昭和20年8月6日(広島)9日(長崎)の二つの原爆について記載がない。戦時下の日記帳で、スペースがないにしても、当時の日本人の原爆投下直後の認識の一端がわかる。長崎原爆投下の9日,父は午前10時半から帝国ホテルで催された外務省岡崎勝男調査局長(戦後外相)の時局講演会に参加している。当日の日記には”容易ならざる事態発生”とソ連の参戦に触れているが、広島原爆についての言及はない。長崎原爆は9日午前11時3分投下されており、おそらく、岡崎氏の講演の最中だった。
8日午前9時15分に広島へ投下された原爆の報は7日未明、トルーマン大統領によって原爆であることが公表されたが、日本では、7日付の新聞(朝日新聞)が前橋などの地方都市への空襲についての記事の後に小さく、たった4行、広島への新型爆弾投下を報じている。一般の日本人が新型爆弾が投下され、大惨事になっているのを知ったのは8日付新聞からであった。記憶が薄れてきたが、僕が新型爆弾ンが原爆だと知ったのは戦後になってからのような気がする。.
父は当時大東亜省関係の外郭団体に嘱託として勤務いていた関係で11日の日記には"昨日(10日)不快な話をきく”とポツダム宣言受諾(敗戦)と日記に書いてある。広島、長崎の二度にわたる原爆投下、ソ連の参戦、当時の日本人としては思いも至らなかった敗戦を御前会議で決断された。原爆投下から敗戦までの8日間、日本で一番長かった8日間であった。
新型爆弾(原爆)の脅威を当時の政府や軍隊は、どこまでわかっていたのでしょうか?
日本にも科学者がいましたが、どうだったのか気になります。
祖母に聞きましたが、当時は神戸あたりまで原爆で火傷を負った人が避難してきていたそうです。
日本人が原爆を知ったのはいつなんでしょうか?
16年生まれの私の母は、井伏鱒二の本で明確に知ったと言っていました。
一般の日本人は、原爆投下によって、ポツダム宣言を受諾したという意識は当時なかったのはないかと思いま。僕は原爆の原理は戦後23年、大学の予科の時代、初めて物理の時間で教わりました。
ただ、原爆については、戦争中から日本でも研究はしていたそうです。