「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

“撃ちてし止まん” 75年前、中学に入学した時代

2018-04-04 06:27:20 | 2012・1・1
昨日、すでに葉桜となってしまった近くの自由が丘の”桜まつり”を旧友二人と見物しながらカフェーで昼食を共にした。ぼくら三人は75年前の昭和18年4月5日旧制中学の校門をくぐった仲だが、三人とも禿頭白髪、かっての”紅顔の美少年”の面影はない。しかし、多少、耳は遠くなったとはいうものの、元気に来し方、行く末を語りあい、素直に長寿を祝った。
 
亡父の日記によると、この年は異常に寒い年で、東京では4月3日に桜が咲いている。中学への初登校は5日と記されているが三人とも入学式の記憶がない。当時、東京では中学の入学試験には筆記試験がなく、懸垂などの体力試験と口頭試問だったが、競争率は3倍近くあった。見事難関を突破したのだから入学式は記憶にあってよいはずなのだが。理由は3人ともわからないが、多分、時代は”撃ちてし止まん”(18年3月発表)で、式どころではなかったのであろうか。

振り返ってみると、18年という年は、緒戦の大勝利に陰りが出てきた。その象徴ともいうべき事件が、僕らが入学して間もなくの山本五十六連合艦隊司令長官の南方の前線での痛ましい戦死であった(4月13日)元帥の戦死は1か月近く秘匿され、6月になって日比谷公園で国葬が行われた。5月12日から15日まで連続4日間、東京ではアラスカ.アリューシャン列島のアッツ島への米軍逆上陸に併せてか警戒警報のサイレンが鳴っている。5月31日の亡父の日記には、アッツ島守備隊の玉砕㋨報を受けて父は”二千余り壮烈な英霊に合掌、飲んでいた配給のビールの酔いも醒めて憂鬱の気になる”と記している。

戦局は日を追うごとに悪化、僕ら中学生にも動員令が下り、学業を捨てて軍需工場で旋盤を回したり、線路工夫になったりして3年生の20年8月15日敗戦を迎えた。波乱の時代であった。











最新の画像もっと見る

コメントを投稿