関東大震災が起きてから今年で90年になる。僕は体験していないが、つい最近まで、わが家には「大正大震災写真帖」(数年前震災記念館に寄贈)や震災で焼け崩れた銅貨の山などがあって、僕は子供の頃から震災の怖さ恐ろしさをよく知っていた。その記念物の中に「帝都復興記念写真グラフ」もあった。これも寄贈してしまったが、改めて帝都復興記念日がいつだったのかを調べてみたら、震災から7年後(正式には6年6か月後の昭和5年3月)であった。
東北大震災から、すでに2年6か月経った。復興庁による復興計画は着々実施されていると思うが、どうも僕らには目にみえてこない。目に見えてくるのは、仮設住宅近くのバラック建ての商店ぐらいだ。関東大震災に比較して、被災地が津波により被災地が広範囲にわたっており、しかも福島原発事故という複雑な要因もある。しかし、復興へのスピードが今一つ遅く、青写真すら描かれていないのでは、と心配すうるのは僕だけではないのでは、ないだろうか。
現在の東京都内の道路網の基幹となっている昭和通り、靖国通り、内堀通りなどは関東大震災の復興計画により出来たものだが、震災から5年ごの昭和3年には、ほぼ完成している。当時の後藤新平・東京市長を中心いした帝都復興院による迅速な復興計画の実施によるものだった。東北大震災の時は「復興構想会議」が発足したのは、震災から1か月後、それも「構想」で、メンバーの中には哲学者とか脚本家とか、実際の復興には直接役立たない人も入っていた。民主党独特のパーフォーマンスであった。
復興庁が正式に発足したのは、震災から11か月たった2012年3月だった。この最初の遅れが復興への遅れになっているのではないだろうか。津波に耐えた一本松の復元も大切かもしれないが、道路、鉄道などインフラ整備のほうが重要ではないだろうか。
東北大震災から、すでに2年6か月経った。復興庁による復興計画は着々実施されていると思うが、どうも僕らには目にみえてこない。目に見えてくるのは、仮設住宅近くのバラック建ての商店ぐらいだ。関東大震災に比較して、被災地が津波により被災地が広範囲にわたっており、しかも福島原発事故という複雑な要因もある。しかし、復興へのスピードが今一つ遅く、青写真すら描かれていないのでは、と心配すうるのは僕だけではないのでは、ないだろうか。
現在の東京都内の道路網の基幹となっている昭和通り、靖国通り、内堀通りなどは関東大震災の復興計画により出来たものだが、震災から5年ごの昭和3年には、ほぼ完成している。当時の後藤新平・東京市長を中心いした帝都復興院による迅速な復興計画の実施によるものだった。東北大震災の時は「復興構想会議」が発足したのは、震災から1か月後、それも「構想」で、メンバーの中には哲学者とか脚本家とか、実際の復興には直接役立たない人も入っていた。民主党独特のパーフォーマンスであった。
復興庁が正式に発足したのは、震災から11か月たった2012年3月だった。この最初の遅れが復興への遅れになっているのではないだろうか。津波に耐えた一本松の復元も大切かもしれないが、道路、鉄道などインフラ整備のほうが重要ではないだろうか。
さっぱりわかりません。
目につくところは、東電の営利に関する話ばかり。
復興にばら蒔かれたお金は、まったく目的と違う子供のワクチン接種だとか、道路整備に使用されたり呆れるものばかりです。
東京が機能すれば、あとは隠蔽して時間の経つのを待っているかのようです。
政治家も役人も、いったい何を考えているのでしょう。
東電の放射能汚染水漏れは、素人の僕が見ても今一番緊急を要する問題だと思います。ところが、政府は何か東電まかせで、一歩ひいているようにみえてなりません。茂木経済通産相の現地視察も遅すぎるし、発言も他人事みたいです。何か国民に隠しているものがある感じがします。
それよりも、地元の復興計画はどうなっているのでしょうか。いつまでも仮設住宅に住まわせるつもりなのでしょうか。震災直後言われた、新しい町造り計画は画餅だったのでしょうか。
ちなみに関東大震災時は、仮設住宅ではなくてバラックでした。
宮古市姉吉では、昭和8年の大津波以降、800mもの遠い漁港まで、生活の利便を犠牲にしても、海抜60m以上の高台に居住地を移した。2011年3月11日の大津波でも、この石碑の50m手前まで津波が、押し寄せた。しかし、高台移転をしていた村民は、全世帯無事だった。
大船渡市田老では、昭和8年大津波の際に、村民が要請して、政府の集団高所移転融資を大堤防建設へと振り替えた。昭和54年には高さ10m大防潮堤完成したが、平成の大津波には、高さも強度も不足していた。
明治・昭和と違って、自動車と舗装道路が整備されてきたので、住宅・病院・役場・学校・介護施設など各種公共施設、暮らしにかかる商業施設は、高所移転の公共事業(必要なら山林を切り開いたり、1戸建てではなく、高層マンションに切り替えてでも)を促進して、再度数十年後に繰り返し来襲してくる大津波に備えて欲しいと思います。
今回の平成の大津波では約2万人にも及ぶ溺死者を出してしまいました。三陸以南の仙台平野のように、過去の大津波の際の経験があまりなく、津波に対して油断をしていた地域での、被害者が圧倒的となっています。漁業以外の土地利用も多いようなので、これらの海岸に隣接する広大な平地は思いきって40mぐらいの土地嵩上げ土木工事をしてはどうだろうか?
津波の高さや遡及高は、地震の震度とは必ずしも比例しないようです。「千年に一度の地震」という言葉で、
準備をしなかった言い訳(三陸の人々には、想定外ではなかったはずです。)にせずに、震度5程度でも、大津波がくることはありうると考えて、抜本的な対策を打ってほしいと思います。
1993年の北海道奥尻島での地震では、津波対策として、まるで要塞のように高さ11mの防潮堤などに930億円を使いましたが、町の人口は4千人規模が3千人規模まで減ってしまっています。従来住んでいたところに防潮堤を作るよりも、集落ごとに高台移転をした方が低コストだったかもしれないように感じます。日本の財政状況は当時とはくらべられないほど赤字化して、大東亜戦争の戦時国債発行よりも劣悪な状況が続いています。復興計画・予算・実行も、よほど優れた長期構想力をたて、的確着実な実行力を備えた組織がいるかもしれないのは、ブロガーの書かれた通りかと思います。
石巻に近い女川発電所で、非常電源が作動したのは、不幸中の幸いでした。もし、女川発電所も建屋に海水浸水して、全電源が停止していたら、水蒸気爆発や水素爆発による放射能降下物に汚染され、とても三陸のサンマどころではなかったと思います。まさに、九死に一生とは、このことを言うと思います。
津波対策において、
<高所>が生命線だと感じます。
震災直後から将来図として高所移転が言われていましたが、残念ながら2年半すぎても、その青写真すら見たことがありません。多分、土地の取得に絡む種々の問題があるのでしょう。原発事故による難しい問題もありますが、仮設住宅が建設された以後の進展が僕にはみえません。やはり、復興計画を現地いあまりにも任せた結果だと思います。
宮古の田老防潮堤も大津波で効果がありませんでしたが、第一防波堤は破壊されなかったそうです。今現地では、壊れた防潮提だけを修理する案も出ているそうです。
関東大地震時は、内務省の力が強く国家的事業が出来たのでしょうが、もっと復興省が表面に出るべきです。
巨大な防潮堤を選択した田老地区では、防潮堤と日常の避難訓練、避難経路の確保拡充などの諸対策で、犠牲者数は、明治の大津波では2248人中で1867人だったのが、今次の平成の大津波では2466人中で、146人となり激減していますから。
民間施設はともかく、たとえば、自衛隊松島基地も、津波に襲われて機能不全に陥りました。・・・・海岸沿いにある松島基地は約2メートルの津波に見舞われ、基地全体が水没した。当日勤務していた隊員約900人は3階以上の建物に避難して全員無事だったが、航空機や整備機材は壊滅的な打撃を受けた。 松島基地ではF2戦闘機18機をはじめ、T4練習機4機、U125A救難捜索機2機、UH60J救難ヘリコプター4機の計28機が水没した。・・・・
また、女川原発も、もしもあと数mほど津波の高さが大きかったら、全電源停止、原子炉炉心溶融、爆発、死の灰の広域飛散の大事故へと展開する恐れがあった。
せめて、軍事基地や原発設備については、日本の誇る最新鋭土木技術を駆使して、埋め立てや土地造成など、なんとしても、高所化すべきと思います。関東大震災や阪神大震災ではガレキを埋め立てに活用したと同様に、発生した大量のガレキの処理にも、つながると思います。
今次の平成の大津波の犠牲者数が明治大津波と同じ規模の2万人となってしまったことは、天災だけでなく、人災の要素も強かったのだと感じます。「千年に一度の大地震」とお題目を唱えていたのでは、具体的な対策に結びつかないと感じます。
三陸地域は、数拾年後に必ず大津波が襲ってくると歴史が語っているわけですから、ブロガーの書かれた通り、自治体だけにまかせずに、国家として推進すべき事業があると思います。
震災の日、テレビが3.11から2年半後の現地の復興状況を報道していましたが、瓦礫は撤去され、仮設住宅は建てられました。しかし、地元自治体が将来への復興へ向けてのグランンド.デザインが見えてきません。被災者には申し訳ないが、日本人の持つ自立自助が失われてきている感じがします。仮設住宅の人たちの中には、被災地に戻り、かっての場所に自分の家を建てたくとも、地元の町や村の復興計画がいつまでも決まらないため、心ならずも仮設にいます。
復興庁の権限がどこまであるのか理解できませんが、
僕ら昔の「内務省」の権限を知っている世代にとっては、もっと強権をもって表に出るべきだと思います。