昭和20年4月15日深夜、京浜工業地帯はB-29二百機による大空襲
で壊滅的な被害を受けた。3月10日の下町大空襲があまりにも大きく
悲惨だったので、その陰に隠れてしまった感じだが、当時城南に住ん
でいた亡父は”初めて空襲の脅威を感ず”と日記に記している。この夜
の空襲で京浜地区の軍需工場は全滅、僕らの動員先の工場も灰燼に
帰した。
あれから62年、きのう当時の仲間7人と焼けた工場跡へ行き往事を偲ん
だ。半世紀以上の時の流れで、昔のよすがは全くなく、工場跡さえ特定
出来なかった。そのころ僕らは中学3年生で”人間魚雷”回天のエンジン
部品を造っていた。もちろん軍事秘密で僕らはそれを知らなかったーが。
工場が焼けた2日目、僕は電車が不通のため7㌔の道を歩いて工場へ
行った。亡父の日記は”敢闘精神の現れ”と賞賛しているが、実際は工
場の焼跡に”焼け米”を拾いに行くのが目的だった。
きのうの集まりでも話題は空腹だった。おにぎりの配給に担任の先生が
一番先に手を出した話。工場からカーバイトを持ち出し、ドブ川でザリガ二
を取り食べた話などなど。育ちさかりの14,5歳の少年にとっては本当
に過酷な時代であった。
工場を見たあと2千円の会費で昼食をたべた。飽食の時代である。高齢
の僕らには多すぎて半分以上残してしまった。あの悪夢のような時代を
思い出し感無量だった。
で壊滅的な被害を受けた。3月10日の下町大空襲があまりにも大きく
悲惨だったので、その陰に隠れてしまった感じだが、当時城南に住ん
でいた亡父は”初めて空襲の脅威を感ず”と日記に記している。この夜
の空襲で京浜地区の軍需工場は全滅、僕らの動員先の工場も灰燼に
帰した。
あれから62年、きのう当時の仲間7人と焼けた工場跡へ行き往事を偲ん
だ。半世紀以上の時の流れで、昔のよすがは全くなく、工場跡さえ特定
出来なかった。そのころ僕らは中学3年生で”人間魚雷”回天のエンジン
部品を造っていた。もちろん軍事秘密で僕らはそれを知らなかったーが。
工場が焼けた2日目、僕は電車が不通のため7㌔の道を歩いて工場へ
行った。亡父の日記は”敢闘精神の現れ”と賞賛しているが、実際は工
場の焼跡に”焼け米”を拾いに行くのが目的だった。
きのうの集まりでも話題は空腹だった。おにぎりの配給に担任の先生が
一番先に手を出した話。工場からカーバイトを持ち出し、ドブ川でザリガ二
を取り食べた話などなど。育ちさかりの14,5歳の少年にとっては本当
に過酷な時代であった。
工場を見たあと2千円の会費で昼食をたべた。飽食の時代である。高齢
の僕らには多すぎて半分以上残してしまった。あの悪夢のような時代を
思い出し感無量だった。
また、今のこの時代でしたらあのような「一般市民を巻き込む無差別爆撃」は戦争犯罪として、世界から糾弾されるところかと思います。以前、「アメリカは歴史的な建物を守るために京都を爆撃しなかった。」と聞きましたが、少し前に「京都は原爆投下の予定地であったため効果を見るために保存していた」と本で読みました。なんとも、人類の歴史と言うのは、過酷だなあと感じました。ただ、日本が、「シベリア抑留」するような共産国に支配されることが無かったのが、不幸中の幸いだたのではないでしょうか。
「回天のエンジン部品」を造っていらっしゃたのですか。
私の机の上に回天と桜花の模型があります。当時の若い方々が、当然、葛藤もされたのでしょうが、祖国の未来にと覚悟され出撃されたことを思う時、現在に生きる者として、日本に、また世界の国々の平和と繁栄へ貢献できる道を歩んでゆきたいものです。
「経済の復興の次は精神の復興」を願うものです。
確かに厳しい時代でした。日本人全体がです。僕の家は強制疎開で家を壊されたのと姉が栄養不良から結核になり21歳で早逝しています。戦病死した家族、原爆で亡くなられた方々。”戦犯”で刑死された家族など。これだけの犠牲を払ったのだから平和を大切にしたいと思います。過去の悪口を言う人がいますが、言ったからといって得にはならないと思います。
実は、当方、つい数ヶ月前からですが、ちょっとしたきっかけで、大東亜戦争前後の歴史について調べるようになりました。そうしましたら、今まで聞かされていた歴史と全く違うものがあることを知りました。「ほんとうのところはどうなんだ!」と思い、いろいろと、本を読んでいる内に、「この戦争は、確かに多くの犠牲を払い、しかも負けたが、決して恥ずかしい戦争ではなかった」のではないかと思うようになりました。
実際に戦争も知らない者が、本を読んだだけで、偉そうな事を言って居るようで、誠に恐縮です。
でも、日本はもっと誇りを持って良いのではないでしょうか。
恐れ入りますが「kakek」さんのお名前は、どういう意味なのですか?当方のない知恵を絞って考えたのですが、どうも思いつきません。
当然、差し支えなければで結構ですが、お教えください。
僕らの世代を含めて学校では現代史を勉強していないし、知らないのです。
戦争なので現在の考えでは想像できないこともあります。
きちんと悪は悪、なぜ悪いことをしなくてはならなかったのか、若い世代に伝えるべきだと思います。
kakekはインドネシア語でお爺さんという意味です。
どうしても東京大空襲ばかりに目が行きがちですが、
この頃の日本は、とくに東京周辺は情けない程空襲にあっているのですよね。
その土地になにがあったのかといことを地元の子供たちに伝える機会などを学校なども設けて欲しいです。
こういう話が、当たり前のように消えていくのは悲しいですね。
飽食の時代だからこそ、考えなければいけないことですね。
4月15日空襲だけでも千人以上なくなっています。平時だったら大変なことです。
昭和19年11月、サイパン島が陥落してから日本への空襲が本格化してきました。僕のおばの家(御徒町)は大晦日に焼けました。5月23日に東京南西部にもう一つ大きな空襲があり、このほか八王子、立川なども焼けて被害者が出ています。、
ありがとうございます。
インドネシア語でお爺さんという意味ですか・・・
これも、聞きかじりで恐縮ですがインドネシアというと「ムルデカ」を連想します。日本の敗戦後も、インドネシアの独立のために700名の勇士が残留し、オランダと戦い、その内400名が戦死されたそうですね。
私もつい最近ですが、ビデオを見ました。
「インドネシア人の国民感情をさかなでする部分があり」
そうなんですか・・・・・。
現在の日本人の私には、ちょっと気がつかなかったのですが、大変に申し訳ないことです。
中々むずかしいものですね。
戦前の日本人の悪い週間で、やたらに人を殴ったものです。僕も教練で教官から
びんたされたこともあります。
あの映画で義勇軍の教練でインドネシア人が殴られた場面があります。事実そうなんですが、昔も今もイスラム教徒は大変人からぶたれるのを嫌います。また老婆がひざまずいて日本人の足に接吻する場面があります。これも事実なのですが、やはり今の人々には抵抗があるようです。