「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「自由が丘が燃えた日」 少ない体験記録

2014-06-04 06:08:33 | Weblog
先日このブログで東京の山の手空襲について書いたところ、同世代の知人から早速「表参道が燃えた日―山の手大空襲の体験記」と同(続)の二冊を参考になればと送ってくれた。この二冊は標題どおり昭和20年5月25日深夜、「表参道」など当時の渋谷区、赤坂区など青山、原宿、麻布一帯を”火の海”と化し3,242人の犠牲者を出した体験記録である。大変貴重な記録で、編集に当たった方々のご努力に改めて敬意を表したい。

僕が目黒で体験したのは、その前日24日未明の空襲で、飛来B-29機数、投下焼夷弾数など25日の空襲に匹敵するが、亡くなった方が762人と少なったためか、全容はあまり知られていないし体験談も少ない。しかし、被災地は品川、荏原、目黒、渋谷、世田谷と広域にわたっている。今は繁華街の五反田や若者の人気のショッピング.エリアになっている当時は郊外の自由が丘の駅前もこの空襲で焼失している。

「表参道が燃えた日」の編集後記でも触れられているが、空襲時正しい情報が知らされなかったこともあり、戦災についての資料は公の機関には乏しい。例えば、僕の家の近くの末広稲荷は3月4日の空襲で消失し、当時の焼跡整理の写真が、警視庁カメラマン、石川光陽氏のアルバムに残っているが、目黒区の記録にはない。ネットで調べると、ピアニストの館野泉氏も当時9歳で自由が丘で空襲に会い、栃木県に疎開されている。

自由が丘は僕の家から東横線で僅か一駅で、駅前の焼跡広場は今でも深く脳裏にあるのだが、記憶の中には5月24日の空襲だけでなく、他の空襲でも被害にあっているような気がする。何分69年も昔の話で記憶は薄れてきているし、思い違いもある。来年は戦後70年の節目の年である。出来れば24日空襲についても体験記録集を残したいと思っている。是非、協力のほどお願いする。

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2 コメント

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どこもかしこも (chobimame)
2014-06-04 09:05:45
東京の空襲といえば下町一帯を焼いた東京大空襲敷かないような錯覚を覚えますが、規模の違いはあっても東京中をくまなく空襲が襲ったのですね。もっと全貌を明らかにして、次世代に伝えて欲しい話です。
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米国の資料はあるが (kakek)
2014-06-04 18:06:37
chobimame さん
5月25日の空襲で、大田区久が原の住宅街に撃ち落されたB29が落下、搭乗員が憲兵隊に連行されたという、噂話を当時聞き、道路に大きな跡があったのを覚えています。一昨年、ブログでこのことを書いたのですが、当時の資料をネットで調べたら、米国側の資料には、乗員の名前から階級まで書いてあり、生存者3人のほかに6人が死亡、遺骨が池上本門寺に埋葬された、とありました。その本門寺は、4月15日の空襲で焼けていました。比較的近所に住んでいながら、今まで知らないことでした。点と点の資料はあるのですが、全容は薄れてきました。
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