川崎市登戸の集団殺傷を伝える新聞の社会面の見出しに”集団通学見守り強化”とあったのを見て、僕は昔、戦争中の登下校当時のことを想いだした。昭和17年(1942年)4月17日、東京は空母から発信したB-25艦上爆撃機16機の襲来を受けた。本土初爆撃で、葛飾の水元国民学校の高等科生徒が機銃掃射で死亡するなど被害を受けた。これを受けて、東京では生徒の集団登校が始まった。
当時、僕は尋常科6年生だったが、学校では住んでいる地域をいくつかの班に分け、毎朝6年生が班長となって集団で登校する制度をつくった。僕も班長に任命され、近所のお稲荷さんに下級生を集め、点呼した後、行列して登校した。途中山手線の踏切があったが、踏切番がいて無事見守ってくれた。18年に中学校(旧制)に入学した後は個別登校になったが、警戒警報が発令されると休校になる取り決めになっていた。
75年前で、記憶が薄れてきたが下校時の学校の措置がはっきりしない。19年11月、空襲が日常化し始めたころだが、警戒警報発令で学校から帰宅を命じられた級友の一人が、退避した学校近くの駅の防空壕に爆弾が落ち生き埋めになったが、直撃弾ではなく一命はとりとめた。
戦後”交通戦争”が激しくなった昭和30年代頃から東京では学童とい養護員(緑のおばさん)ができ、定着してきた。しかし、今度は治安の悪化に対する見守り隊が必要なのであろうか。しかし、子は国の宝である。万全の策を取ってほしい。
どうしたら子供の安全を守ることが出来るのか?
地域の繋がりがない社会は、家の玄関口までスクールバスをつけねば安心できません。
お一人様社会などと言われていますが、それは決して良くありませんね。
模倣犯がこわいすね。テレビは犯行の手口など詳しく報道すべきではないです。空襲下、その脅威はありましたが、無差別に他人に襲い掛かるような犯罪はありませんでした。家の近くに私立小学校が二つあり通学していますが、停留所に先生が乗降に立ち会うようになりました。