「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

お米の配給”ニ合五勺”に増配 70年前の亡父の日記の時代

2016-11-25 06:08:30 | 2012・1・1
東北の原発事故被災地の知り合いから快気祝に2キロ入りのお米が届いた。やはり、米どころのブランド品は美味しい。早速二人して頂戴した。戦中戦後の未曾有の食糧難を体験してきた僕ら世代には色々お米について想い出がある。

70年前の昭和21年11月の亡父の日記補遺に”朗報!今月から、お米一人一日二合五勺に増配”とある。尺貫法の廃止で現代人には解からなくなったが、今流に直せば約300グラムである。300グラムと聞いても僕には見当がつかないので、老妻に聞くと、わが家二人の1か月の消費量は8キロといから、かなりの量である。だから朗報には違いないのだが、僕の記憶では実感がない。ただ、この年出来秋前の5月には、皇居前で”朕はたらふく食っている。汝、臣民餓えて死ね”の米寄こせデモが行われいただけに庶民には朗報だったわけだ。

当時、亡父の日記によると、やはり二合五勺に増配になったというが、言葉だけで依然サツマイモなどが代替品として配給されていた。亡母は電車に乗って多摩川を渡り、当時まだ農村地帯であった元住吉へ、定期的に野菜の買い出しに出かけていた。しかし、わが家の近くの開通前の目黒通り上には、バラックながら引揚者による仮設のマーケットが建てられ、おカネを出せば肉もサカナも買えるようになった。

新嘗祭(23日)の日、僕は後楽園球場に弁当を持参、職業(プロ)野球の見物に出かけている。川上(哲治}赤バット、大下(弘)靑バットの走りの時代である。家では配給になった玄米を一升ビンに入れ、ハタキの棒で”精米”していた時代である。加齢とともに色々昔のことが懐かしく想い出される。