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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

大東亜戦争の聞き取り調査(1)セレベス新聞社

2015-03-28 06:21:49 | Weblog
昨日、スラウェシ(インドネシア)研究会の会合に出席した。会合には戦時下、マカッサルで現地人向けに発行してた、マレー語の新聞「Pewarta Selebes」(セレベス公報)の編集に携わっていた黒崎久さん(96)も講師として招かれた。黒崎さんは昭和18年12月、当時毎日新聞が海軍の委託で南方に進出したセレベス新聞社に出向した。セレベス新聞社は、日本語の新聞「セレベス新聞」と「Pewarta Selebes」をマカッサルとメナドで約3万部発行していた。

黒崎さんは大学での専攻がマレー語であったので「Pewarta Selebes」に所属したが、「Pewarta Selebes」の日本人スタッフは5人であった。編集長は戦前からの蘭印生活が長い近藤三郎さんや同じくマレー語が堪能の花岡泰隆さんがいた。新聞は主として、同盟通信(共同通信の前身)の記事を中心に海軍民政部の意を受けた宣撫工作的な記事が多かった。

昨日の会合にはスラウェシ研究会の長老、粟竹章ニさん(89)も出席した。粟竹さんは戦争中、海軍軍属としてマカッサルに勤務、偶然にも黒崎さんがいたセレベス新聞社と通り一つ隔てた場所に住んでいて、昭和21年、日本に帰る復員船も同じであった。お二人は、当時はお互いに知らない中であったが、共通の体験をされており話がはずんだ。研究会のメンバーは、ほとんど戦後マカッサルに勤務した人たちで、お二人の話は、スラウェシ研究に役立つものだった。

戦後70年の節目の年で、大東亜戦争についての関心が深まっている。しかし、直接戦地に赴き従軍した世代はほとんど90歳以上で、残念ながら当時の体験をお聞きする機会が少なくなってきた。まったく偶然なのだが、僕は昨日の黒崎さんを皮切りに連続3日間、90歳以上の先輩たちから、従軍体験をお聞きする機会に恵まれた。

昭和30年(1955年)生まれ境界の世代交代論

2015-03-27 05:52:09 | Weblog
元外交官で評論家の宮家邦彦氏(昭和28年生まれ)が産経新聞のコラム「オピニオン」欄(3月26日付け首都圏版)に”日本の世代交代を考える”という世代交代論を書いていた。僕なりにざっつと解釈してみると、鳩山由紀夫,菅直人(民主党両元総理)で代表される”空想的平和主義”の時代は終わり、昭和30年(1955年)生まれ前後の、いわゆる”ノンポリ”(政治的無関心)といわれた世代の時代に入ってきた、というのである。

知人(昭和34年生まれ)から執筆原稿が載ったと、”新しい日本を創る提言誌”「Voice」の贈呈を受けた。読むと、別の知り合い(49年生まれ)の玉稿も掲載されている。この月刊誌には、執筆者の紹介欄に生年月日が書いてあるが、戦前生まれは作家の曾野綾子さん他二人だけ、戦後の、団塊世代も二人しかいない。これに対して、昭和30年前後以降の世代が15人と半数以上を占めている。

改めて世代交代を感じて、安倍内閣の閣僚の年齢を調べてみたら、安倍総理の29年生まれを初め岸田外相(32年)中谷防衛相(36年)石破地方創生担当相(36年)林農水相(36年)高市総務相(36年)上川法相(28年)有村行政改革相(45年)と、この世代が8人もいる。これに対して団塊世代は菅官房長官(23年)のほか7人である。着実に世代交代は進んでいる。

宮家氏の記事によると、先日仙台で"G1サミット”という各界の若手指導者の会合があったが、主催者は参加の条件として”昭和30年以降生まれ”としていたそうだ。何故、昭和30年で切ったのか、知らないが、行動方針は”批判より提案”だそうだが、宮家氏は原稿の最後に”ようやく、まっとうな国になり始めてきた。これを次世代に引き継ぐべきだ”と結んでいるが、僕も同感だ。”空想的平和主義”世代が、危うく国を滅ぼしかけていた。

誤解を呼ぶ無意味な総理の“我が軍”発言

2015-03-26 06:00:24 | Weblog
天皇皇后両陛下が来月8日―9日パラオ諸島の激戦地ぺリリユー島へ慰霊訪問されるが先日、これに先立って戦闘の生き残りの元日本兵二人を皇居に招かれ懇談された。その場面をテレビで見たがNHKのアナウンサーが、そのうちの一人の肩書を”海軍上等兵”と呼んでいた。旧海軍には”上等兵”という階級はない。詰まらない指摘だが、戦争体験世代には、戦後70年の歳月を実感した。

安倍総理が参院予算委の質疑の中で、自衛隊を”我が軍”呼ばわりしたとして、民主党など野党が大騒ぎしている。憲法九条第二項には,陸海空その他の戦力は保持しない、と規定している。これからみれば、総理の”我が軍”発言は違和感がある。自衛隊は「軍隊」とは違うといっても陸海空の機能を備えている。憲法改正を目指す、安倍内閣にとっては、この九条改正は譲れないのは理解できる。

僕は憲法改正には反対ではない。戦後70年近く立って、占領軍の”お仕着せ”的色彩の強い今の憲法には矛盾もあり、現代に即していない点もある。「自衛隊」もそうである。誰が見ても「軍隊」である。安倍総理が口を滑らし”我が軍”と発言するのも理解できる。しかし、”我が軍”即、あの戦争の悲惨な想い出に通じる世代もおり、一方的に戦後の「平和憲法」をおし戴き、時代の変化に対応でいない世代もいる。

言葉尻をとらえるわけではないが、総理の「我が軍」発言は乱暴で、誤解を呼ぶ。先日、半可な「八紘一宇」発言で波紋をよんだ女性議員もいたが、やはり、総理はきちんと丁寧に言葉を選んで発言すべきだ。憲法改正―徴兵―戦争と一方的に信じている、戦争実体験の無いノーベル受章作家もおり、それ以上に総理の「70年談話」にケチをつけたい近隣諸国もいるのだから。

”竹馬の友”の「おび天」の土産と飫肥杉

2015-03-25 05:43:00 | Weblog
近くに住む70年来の”竹馬の友”が家族旅行で九州に行ってきたと宮崎県日南名物の「おび天」を届けてくれた。「おび天」とは日南市の飫肥(おび)地方の名物の揚げ物である。江戸時代、飫肥城の殿様が、一度城内巡幸の際食べて”これは美味い”と推奨されたという、伝統的な食べ物だ。名前が「えび天」ではなくて「おび天」なのが面白い。

20数年前、僕はJICA(国際協力機構)の研修コーディ―ターとして途上国の林業研修員を連れて飫肥を訪れたことがある。飫肥は旧藩時代、財政難から杉の植林に力を入れてきた関係で、この地方で伐採される杉材は良質で、とくに造船材として有名だった。しかし、戦後安い外国材が輸入されてきて以来、飫肥はかってのような賑わいはなくなっていた。

ところが、最近この飫肥杉が注目されてきているという。韓国へ建築材として輸出され始めた。韓国は伝統的に森林資源に恵まれないそうだが、ここへきて建築ブームで、室内の装飾財として飫肥杉が人気なのだとのこと。韓国の森林自給率は10パ―セントだというから、これからの潜在的な需要も期待できそうである。

東京に住んでいると、政府が力を入れている「地方創生」が目に見えないが、飫肥のように着実に創成に努力している所もある。月並みの発想だが、政府は”地方創生”コンクールみたいな催しをして、毎年、地方創生に成功した市町村や事業主を表彰したりしたらどうか。農業大賞とか農業コンクールもあるが、これを全産業に当てはめて行ってはどうだろうか。”創生””創生”と叫んでも何かインセンテイブがあったほうがよい。

内戦状態のイエメン 半世紀前のタイズの写真

2015-03-24 05:24:47 | Weblog

イエメンのシーア派武装組織「フーシ」派が、同国三番目の都市、タイズの国際空港を占拠、支配下に置いたという。7か月前、「フーシ」派のクーデターによって首都サヌアを追われたハディ大統領は現在、南部の港湾都市アデンに暫定的に居住しているが、タイズは、そのアデンから150キロの地点にある。現地からの報道だと、アデンの大統領暫定住居もすでに銃爆撃を受け、まさに内戦状態だ。

53年前の1962年11月、僕はイエメン王国が崩壊したクーデター取材のため当時英国保護領だったアデンから空路サヌアへ向かったが、情勢が悪化し、途中のタイズ空港で降ろされてしまった。このため、アデンに陸路引き返さざるをえなかった。上の写真はその時のものである。道らしい道はなく、乾燥したワデイ(川床)の上で、車は何回もエンコした。

国連の潘基文総長は”我々の目の前でイエメンは崩壊している”と他人事のように言っているが、国際社会が支持しているハディ政権は崩壊寸前の危機にある。首都サヌアでは「フーシ派」への反撃なのだろうか、スンニ派を自称する「イスラム国」(IS)がシーア派のもモスクを爆発140人もの死者がでている。宗派と部族対立とが二重にも三重にもからみ、ぼくら異教徒に理解できない。国際社会はハディ政権をいつまでも支持できるのであろうか。

クンロク以下の大関陣の不甲斐なさ

2015-03-23 06:21:37 | Weblog
戦後すぐの時代から1970年代にかけて日本中のサリーマンが”憑かれた”ように麻雀に夢中になっていた時代があった。僕もその一人だが、その時代大相撲で毎場所9勝しか上げられない弱い大関のことをクンロク大関といった。クンロクとは麻雀の点数で9600点のこと。麻雀をやらない方には申し訳ないが、メンタンピンリーチという一般的な上がり方の一つである。

大相撲春場所が昨日、横綱白鵬の34回目の優勝でめでたく幕を閉じた。新関脇照ノ富士の大活躍もあって場所は15日間連日満員御礼の盛況だったが、一方では三大関、稀勢の里、琴奨菊、豪栄道がそれぞれ、9勝、8勝、8勝とやっと勝ち越す不甲斐なさだ。とくに豪栄道に至っては、昨年7月大関昇進後4場所の成績が、8.5.8.8勝と4場所の勝率が5割を割っている。若貴横綱の父親、初代貴ノ花も大関昇進4場所の成績は9勝、8勝、0勝、8勝とクンロク大関だったが、豪栄道は9勝すらできない。

大関昇進の基準は、最近は直前3場所の勝数が32勝とも33勝とも言われている。豪栄道も一応、この基準を満たしているわけだが、昇進すると何故勝てなくなるのであろうかー。今場所13勝した照ノ冨士に対して、早くも大関の声が上がっている。今場所の相撲を見る限り、大関、横綱の素質が感じられるが、この数場所あれだけ騒がれた遠藤が、思わぬ土俵上の怪我で欠場に追い込まれてたケースもある。

今場所の十両以下各段の優勝者がそろって怪我や病気で長期休場し、再起を期す力士たちである。怪我は相撲につきものというが、クンロク大関が勝てないのは怪我や病気を押して出場しているのだろうか。相撲協会は、力士たちの健康にもっと留意すべきではなかろうか。

春の彼岸の墓参り 断食祭前の墓参り

2015-03-22 05:58:31 | Weblog
昨日は国民の祝日「春分の日」であった。昭和23年制定の「祝日法」によれば”自然を讃え生物を愛しむ”日、これに対して「秋分の日」は”祖先を尊やみ、亡くなった人々を慕う”祝日である。しかし、一般には、「春分の日」「秋分の日」ともお彼岸の中日と呼ばれ、祖先の霊を偲び墓参に行く日とされている。

お彼岸はもともと仏教用語の「到彼岸」からきており、”煩悩の迷いの世界”「此岸」から”悟りの世界”「彼岸」へ到達する意だとのこと。昼の時間と夜の時間が同じで、到達距離が最も短いことから春秋二回、この日が彼岸の日とされている。しかし、何故この日に墓参りをするのか判らない。わが国だけの行事で、仏教の発祥の地インドでも直接仏教渡来の地である中国や韓国でもこの習慣はないそうである。

国民の大半がイスラム教徒であるインドネシアでは、断食明けの大祭”ハリラヤ”の前にお墓を清掃し家族でお参りする習慣がある。10数年前、スマトラのメダンに滞在していた時、僕の知り合いの元残留日本兵の二世は、華僑と結婚しイスラム教徒ではないが、やはり、この時期に英雄墓地に家族と墓参していた。

同じメダンの経験だが、マレー系のイスラム教徒宅にホームステイしていた時、知り合いが亡くなった。その死後の行事が、仏教と同じように一週間ごとに行われていた。知人にこれはイスラムの習慣かと尋ねたら知らないが、もしかすると、8-9世紀ごろスマトラが仏教王国(スリブジャヤ)であった頃の名残ではないかと答えた。真偽は解らないが、わが国のお彼岸の日の墓参りといい、宗教と庶民の習慣との関係には解からないことが多い。

旬がなくなったカタカナ名前の野菜とTPP

2015-03-21 06:00:05 | Weblog
最近わが家の食卓に必ずカボチャが登場する。カボチャが大腸がんの手術後に良いと、老妻がどこからか聞いてきて僕のために料理してくれる。カボチャとといえば、昔は夏のものだったが、今は、外国からの輸入物があり、いつでも食べられる。老妻が買ってくるカボチャは遠くメキシコから来たものだが、比較的安く手に入るし、味も食糧難の頃食べさせられた、あの水っぽいのとは違って美味しい。

TPP交渉がどうなっているのか素人の僕には解らないが、昔に比べてカタカナ名前の野菜を日常食べる機会が多くなってきたようだ。野菜の自給率は80パーセントというから、食料全体の40数パーセントに比べれば、あまり問題にならないのかもしれない。メキシコ産のカボチャもそうだが、先日、老妻が「モロッコ.インゲン」という平ザヤのインゲンを買ってきた。僕はてっきり、北アフリカのモロッコからの輸入物だと思い、外国野菜に敏感な娘は手を付けなかった。しかし、ものの本によると、モロッコには関係がなく、種屋さんがつけた商品名にすぎないという。

ハウス栽培の普及と食の多様化で、野菜や果物の旬がなくなってきた。昔は夏野菜の代表格であったトマト、キュウリ、ナスなどが今では冬でも食べられるようになった。また、かっては沖縄ローカルの野菜だったゴーヤとか、全く戦前にはなかったオクラなどが国内でも栽培され食されるようになった。今スーパーの店頭にはイチゴの箱が沢山出回っているが、戦前イチゴは6月から7月にかけての一時期しか食べれなかった。

消費者にとっては、いつでも新鮮な野菜や果物が食べられるのは有り難いが、生産者にとっては、これからTPP交渉の妥結にむかって難かしい時代である。

「話す」「書く」英語が苦手な高校生

2015-03-20 05:45:54 | Weblog
文科省が高校三年生を対象にして英語力を調査したところ、英検の中学生卒業程度のレベル三級以下の生徒の割合が「話す」が87.2パーセント、「書く」が86.5パーセントと、「聞く」75.9パーセント、「読む」72.5パーセントと比較して高く、苦手であることが判った。「話す」が不得意なのは昔からだが、「書く」が苦手なのは心配だ。

戦前の英語の学習は、いわゆる「Reader」(読本)が中心で、もっぱら読解力を高めることだった。当時の受験参考書、小野圭次郎(オノケイ)の「英文解釈読解法」が、なんと984版、150万部も売れたことが、これを証明している。「読む」に次いで重要視されたのは「書く」で、戦争中中学生(旧制)であった僕らも「英語一」が読本を読むこと、「英語二」が英作文で、書くことを学んだ。

「話す」「聞く」の英語力が問題視されてきたのは、戦後である。NHKラジオの平川唯一の「カムカム・イングリシュ」の頃からであろうか。それでも日本人の「話す」「聞く」能力は一向に上達して来なかったが、今回の調査で「聞く」が「書く」より成績がよかったのは、受験試験に、リスニング.テストが採用されるようになった結果なのだろうか。

戦前の旧制高校生の英語の読解力と作文力のレベルは高かったが、会話となると、からっきしダメだった。戦後すぐ国際ペン大会が東京で開催された時、僕は著名な英文学者の「通訳」をさせられたことがある。英文学者だから、僕よりはるかに英語力はあるはずなのに、日常的な会話が苦手なのだ。この英文学者に限らず、昔の学者には立派な英文で論文を書く人が多かった。「書く」も日本人は得意だったのだが、苦手になってきたのは心配である。

無意味で軽率な三原議員の「八紘一宇」発言

2015-03-19 06:13:23 | Weblog
自民党の三原じゅん子参院議員が国会の予算委員会で「八紘一宇」という言葉を使ったのは、日本の過去の侵略戦争を肯定するものだと波紋を呼んでいる。麻生太郎財政相が”三原議員のような若い世代が「八紘一宇」を知っていたとは驚きだ”と言っていたが、僕も同感。三原議員が果たして「八紘一宇」の本当の意味を知っていたかどうかは別問題として、誤解を呼ぶような、こんな色褪せた言葉を”戦後70年”のこの時期に使用するのは軽率だ。

「八紘一宇」とは広辞林によると”世界を一つの家にする事。太平洋戦争期、わが国の海外進出を正当化するために用いられた標語”とある。戦争中小学生であった僕も「八紘一宇」を知っている。”見よ東海の空明けて”で始まる「愛国行進曲」(昭和12年情報局制定)の二番には”往け八紘を宇として四海の人を導いて正しい平和打ち立てた理想の花と咲き誇る”とある。三原議員のように本来は”世界が家族のように仲良くしよう”という意味なのだ。

しかし、戦争中のものは、すべて”悪”だという風潮の中で「八紘一宇」は、日本のアジア侵略、植民地主義を肯定するスローガンだと一般には受け取られている。今年は戦後70年で、安倍総理の「70年談話」が注目されており、今から近隣諸国の中には、内容の如何にかかわらず、批判しようと”手ぐすね”引いて待っている。そんな中での「八紘一宇”発言である。誤解を呼ぶ、言わずもがなの無意味な発言である。

戦争中、僕はまだ子供だったから「八紘一宇」の本当の意味を知らなっかのは当然だが、戦争中「スマトラ新聞」の記者であった僕の先輩の菊池秀広さん(故人)は自著「ムルデカに喝采」(講談社出版)の中で「八紘一宇」を現地の人に理解させるのに困ったと述懐している。どれだけの日本人が当時「八紘一宇」を理解していたかは不明だ。