Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

4月5日(月) 「後手に回る」を読んで

2021-04-05 22:16:04 | 日記

今日は役場に行って、今年度に発足予定の「行財政改革委員会」の委員公募に応募してきました。募集枠は3名で、聞くと私が1番乗りとのこと。多数になれば抽選なのか、審査をするのか、いずれにせよ外れる可能性もあるわけで、推移が注目されるところです。

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ネットでニュースを見ていたら、今日の大谷翔平選手、すごかったですね。あんな無理な体勢でもドデカいホームランをかっ飛ばすんですから。アメリカ人も度肝を抜かれたのではないでしょうか。ただ、投手としては球がちょっと荒れていて気がかり。無理をして肩を痛めなければと思わされました。

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さて、話はまたコロッと変わって、多少教育に関係するお話です。

私は30代から40代半ばまで、ある県の公立進学校の教員をしていました。その頃はまだ東西冷戦のまっただ中で、経済的には下り坂であったとはいえ、大学進学率も上昇を続け総中流社会というのもあながちウソではありませんでした。

名古屋の定時制高校から一転して進学校に勤めることになり、そのときに最も感じたことは、どの生徒もほとんど同じ顔にしか見えなかったということでした。もちろん、その後担任などをして生徒達に接していく中では、その感覚も薄れ一人一人の顔もよく見えるようにはなっていきましたが。

公立とは言え、毎年東大に10数人も合格する進学校ですから、生徒達はもちろん「優秀」であることは言うまでもありません。学年の成績上位者から順に、東大、京大、阪大、東工大・・・と不思議なくらい各自の志望校は決まっており、また、「進学指導」もそのように行われていました。

結局のところ、社会的なつながりからは全く隔離され、ただひたすら記憶し与えられた問題を解決する訓練を受けるわけですから、そこで培われたものはその後の人生にとって、いったいどんな意味を持っていたのか、半世紀ぐらいも経っていますから、聞けるものなら聞いてみたい気持ちです。

与えられた問題(すでに答えは一義的に決まっている)を解くというのは、内田樹流にいえば「後手に回る」ということ。

そこに生まれる「知性」というのは、結局のところ与えられた問い(しかも答えはすでにわかっている)をどう解決するかという訓練のなかで培われたものですから、ついには、問いを待つ、あるいは問いがなければ答えないという習性に変わっていくことは容易に推測できます。

たまに、そんな教育のあり方を拒否し、「教えられる」ことについてはそれだけのものと受け流し、自分の世界に遊んで悠々としているヤツもいたわけで、そうした異端児はやはり輝いていた。そうかと思うと、知識だけは驚くほど豊富で、何でも知っている博学もいた。

考えてみると、私が学校や塾でやってきたことは、まさに「後手に回る」訓練を手助けしたわけで、何とか社会問題に関心を持たせようとか、仲間意識を持たせようとかと努力したことも、気休めに過ぎなかったような気がして忸怩たる思いを禁じ得ません。

だが、そうした学校現場の仕事から解放されて、いま私がやっていることは、まさしく解答のない、容易には先の読めない「明日をつくる」仕事です。だから、いくら時間があっても足りないし、次々と関連する課題が生まれてくる。実践を理論化し理論をさらに実践に移す。答えはないのですから、自分でつくっていくしかない。

人生の後半にきて、少しは過去の穴埋めができつつあるような気もしますが、よく考えてみると過去と断絶があるわけではない。知識として自らに蓄積してきたこと、「後手に回る」ことではあっても、確実にそれを成し遂げてきたことなどは、すべて現在につながっている。決して無駄なことではなかったのです。この点は極めて大事です。

学校では「アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)」とか「自ら考える教育」とかという流れが流行になっているけれど、教育の現場だけに(教師だけに)そうした流れを押しつけても、どんな効果があるのか私には疑問です。結局、言葉だけが踊り、内実は「後手に回る」教育のみを、形を変えてそれらしく見せるだけに終わりはしないか。

安倍・菅内閣が垂れ流してきたものや、労働現場で広がっている低賃金、差別、雇用の劣化などに端的に表れている現実を無視して(子どもたちはいずれそうした社会に入っていく)、いったいどのような「考える教育」を作り出そうというのか。

「校則を見直す」「地域社会の衰退を止める」「地球温暖化を食い止める」「原発をなくす」など、答えのない問いに切り込んだとき、子どもたちは、社会の矛盾、政治の劣化と向き合わざるを得ず、それぞれの生き方を模索していくことになるのではないか。

そのときこそ、本当の意味で語学や数学や母国語の有用性、必要性に気がつき、学びはじめることになるのでしょう。

果たして、現在の指導要領はどれだけの度量があるのでしょうか。また、教師達はそれだけの準備があるのでしょうか。父母もまた子ども達にそうした教育を望むのでしょうか。行き着く先は、装いをあらたにした「後手に回る」教育ということになるのではないかという懸念を私は抱いています。

世界では、たとえば、Greta Thunbergさんが自分たちがこれから生きる世界を守るために「先手をとるたたかい」を続け、ミャンマーでは若い世代が、これまた自分たちが生きる世界を守り作り出すために死をも覚悟して街頭に出てたたかい続けている。

もちろん公教育がストレートにそうしたことをテーマにする必要はないとしても、それらの課題と切り結べないものであれば、いずれ、今日の思想的退廃と労働の劣化のただ中に放り込まれて右往左往するだけになってしまうのでしょう。

内田さんの論考を読みつつ、とりとめのないことを考えていました。おそまつでした。