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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

今こそ分かれ目!?

2013-08-04 | シリーズ「テレパスアート物語」
最近よく飛行機に擬態した?UFO!?を見かける。

大体出て来そうな時は何となくわかる。

それはとても空が青くて空気が澄んでいて気持ちのいい波動に満ちているような時。

あるいは何か重要な出来事があったり、何らかの必要性を感じさせられるような時。

また、例えば個人的に落ち込んでいて元気が欲しくてふと空を見上げた時など。

そして、「今こそ決断を迫られている」というような「緊急事態」の時!?


私が今最も気になっているのは、中国や韓国やいろんな「国と国」同士の争いや小競り合いから、いつのまにか戦争になってしまうこと。

かつて核も含む化学兵器の多用によって沈んだと言われている幻の?大陸があったように、今も同じような懸念を日々感じる。


昨年、マヤ暦終了「2012年12月21日に関するメッセージ」を含めた絵を描かせていただく機会があった時に、「アトランティス」の浮上というイメージが浮かんだのだが、、、。

その意味は、今まさに人類がそのような分裂と衝突と再沈没の「危機」に瀕しているということかもしれない。

そしてそれを回避するキーワードはとてもシンプルなこと。


私たち個人個人、一人ひとりが、「闘いよりも『愛』を選ぶ」ということ。

最近描かせていただいたある子どもさんの絵で、「愛というのは手をつなぐこと」という、とてもわかりやすいが大人には実行が難しいテーマがあった。


例えば1995年に起きたあの阪神淡路大震災後にどれだけ多くの別れや「震災別居」や「離婚」があったことか!?
もちろん私のような「再婚組」もあったけれど、それも続いているのは果たしてどれだけあるだろうか。
あるいはこれからまた別れが待っているかもしれない。

そのような中、私の身内の話で恐縮だが、震災以来ずっと別居を続けていた夫婦が、何と18年目にしてようやくまた一緒に暮らすべく現在準備中なのである。


それというのも、復興住宅の期限(20年)まであと少しになり、次に住むところを見つけるか、もし同じところに住み続けるとしても家賃のかなりの値上げがあるので、どうしてもそれぞれが何らかの「決断」をする必要があるからだ。

かなり高齢になってからの再同居が果たしてうまくいくものなのかどうか?私は少々心配している面もあるが、ただ、本人がいろいろ逡巡したあげく、そういう選択をしたことをとても尊敬している。


それはとても勇気の要ることだからだ。
たとえもう一度一緒になっても、うまくいくとは限らないかもしれない、、、

けれど、もしそのまま人生を終わるとしたら、それもまた悔いが残るとすれば、「やらないよりはやってみての後悔の方がまだまし」というか、少なくとも「チャレンジ」した自分自身に、「やるだけのことはやった」「出来るだけの努力はした」と、「誇り」を持つことが出来るかもしれない。


伊豆に住んでいた頃、下田において、幕末維新の頃の「子孫たち」が一堂に会して語り合うという素晴らしい講演会があったが、その折り、勝海舟の子孫の女性が、(アメリカであったある平和のための会の質疑応答で)一人の高校生に、「平和が生まれるのはどんな時?」そして「平和が壊れるのはどんな時?」という質問を受けて、彼女は即こう答えたそうだ。


「手をつなぐ時に平和は生まれる」「つないだ手を離す時に平和は壊れる」と。


そして、またオノ・ヨーコさんが言われた言葉も思い出す。
「利害関係」のあるもの同士は強くて、お互いの利益(金もうけ)のためにはどんな者とでも平気で手を繋ぎ、その結束は固い。

逆に愛のある繊細な仲間同士は、その「やさしさ」ゆえに、細かいところが気になり、ささいなところまでも気にし過ぎるがゆえに分裂しやすく、内部批判をしてしまいがち。
だからこそ、出来るだけそのようなお互いへの批判やこだわりは超えて、大きくゆるやかに繋がる必要があるのだ、と。

(これらは私の「解釈」も入ったフィルターのかかったアバウトな説明なので、実際のその厳密な言葉については著作やHPをご覧ください)


話があちこち飛んでしまったが、誰と手を結ぶのかということにおいて、その動機が「お金」では無く、「愛」であるなら、問題は何も起こらないだろう。多少の意見の違いはあっても、「愛が最も強い」からだ。

そしてそのような場合は、(後から「間違った組み合わせ」であったと気付いた)その相手と離れる時でも、お互いに傷付けあったり、闘ったりすること無く、十分に話し合って理解し合ってから、ちょうどよいタイミングで、自然に分かれる(別れる)ことも出来るに違いない。


話は長くなるが、私たちが見ている星と星の間に「線」は無く、「星座」というのも、勝手に?ある星と星を結びつけて、そのようなひとつの「星座」として見ることで、ある物語を生み出しているのかもしれない。

けれどもそのような「星座」として見ることで、さまざまなことがわかるという場合もあり、時には大袈裟に言うなら「人類の物語」として読めるということもあるかもしれない。
(それが先日ブログでご紹介した河合隼雄さんの言葉、「コンステレーションを読み取る」という意味でもあるのだ)


実は、そのような「深い隠された『コンステレーション』を読み取ること」において、「たまわーるど」のたまさんほど、その読み解き方において、彼女の長年の熟練と類い稀なるその「サイキック能力」でもって、「ぴったしの時期にぴったしの解釈の出来る人」は他にいないのではないかと、私は心から信頼している。


こんなふうに書くと何だかお互いに「内輪褒め」になってしまい、照れて少々気恥ずかしいのだが、それを上回るお互いの「共通認識」があって、それこそ「今でしょ!!」という感覚で、私たち一人一人の、それぞれの「自覚」や「気付き」が今程問われている時は無いと思うのだ。

そしてもしも今その判断を誤るならば、この先何年か後になって、「あぁ、あの時が『分かれ目』だったのだなぁ」と気付いても、もう遅過ぎるかもしれないのだから。


戦争というのはきっといつの時代も「正義のもとに始まる」ものだと思う。

そして必ずその陰には「武器商人たち」がいて、彼らは結局敵対する同士のどちらにも武器を売ることで儲け、自分たちは傷付くことも無く肥え太り、結果として国土は荒れ、自然は破壊され、どれだけの子どもたちや女性たち、ハンディキャップを持った人たち、動物たちに到るまでもが犠牲になることだろうか、、。

戦争が終わってみれば、得をしたのは誰かがはっきりとわかることだろう、、。

もう今の時代は「国」という概念では無く、個人個人、また一人ひとりの顔が見える必要があるし、それと共に、「地球人」としての自覚、「人類」としての自覚を持って生きていくしか、生き延びる道は無いという気がする。


それにも関わらず、だんだんに息苦しい「空気」(ナショナリズム)が蔓延してきつつあり、ものを言いにくい嫌な時代になっていきそうで、一人ひとりが注意深く、ほんとうに気を付けていなければ、知らないうちにいろんなものごとが進行し、気が付くと「戦争が始まっていた!」ということの無いようにと、何よりも心から願っている。


また、また話は飛躍するが、テレパスアートにはなぜかその時々のシリーズがあり、前後に同じようなテーマを持った人たちの絵を続いて描くことも多い。

例えばある時は「タイタニック」に関連した人たち、ある時には「フランス革命」や貴族に関係した人たち、そしてある時は「ヒロシマ」や「原爆」に関した人たち、あるいはまた(過去生において)「ナチス」関連の人たちを描いたこともある。

それらは「犠牲者」「被害者」の場合もあり、逆に自分が「加害者」や「傍観者」であった場合も含めて、今の時代に転生して、何らかの「修復」(癒しも含めて)や「つぐない」「あがない」をしていると感じられる。


そういったことが果たしてどこまで事実なのか!?科学的な証明などは出来ないが、それよりももっと大事なことは、だからこそ「(今)自分が(この場で)どういう生き方をするのか」ということではないだろうか。


ただ、あまりにも目の前の現実だけを見ているとほんとうに絶望的な気分にさせられてしまうことも多いが、今日たまたま「花まる先生」の授業をネットで拝見したら、「何でもすぐに『出来ない』とか、『苦手』とか、『嫌い』とか、言ってしまわない方がいい」という話をされていて、とても参考になった。

私もすぐにそういうふうに言うことで、苦手な人やものごとを避けてしまう傾向が強いが、ここでしっかり踏ん張らなければ、、と思い、身の程知らずにも、「言ったり、書いたりが自由に出来ること」のありがたさを噛み締め、批判を怖れずに「言いたいことが自由に言える空気」というものを拡げていかなければ、、と思った次第。

戦争になるのが何が一番困るかと言えば、私にとってはそれは何よりも「自由」が制限されること。
好きな話が出来ないこと。


そういうわけで、今はどんな荒唐無稽の話に思われてもいいので(例え笑われようとも)、ぜひとも「未確認飛行物体」の話を紹介しておこうと思う。

冒頭に書いた飛行機に擬態した?「UFO」の話については、「遠い記憶・前世からの約束」というサイトの「ユニバース(宇宙)」というカテゴリーの中で、「これな~に?」や「未確認飛行体」としてたくさん紹介されているので、ぜひご覧いただけたら嬉しい。
特に動画や、順を追って撮影された美しい写真やわかりやすい図など、ほんとうに見応えがある。


このような「未確認飛行体」(UFO!?)を私はほぼ毎日のように見ている。

それはこの高橋さんという方のサイトを船井幸雄さんのHPで知るようになるずっと以前から続いていたことなので、私にとっては彼がいかに正しく観察しているかということがよくわかる。
実際に全くその通りだからだ。

そして、また私はそのサイトでさらに詳しく「見分け方」のポイントや、その見どころ?などを知ることが出来たので、これまでよりももっとよく観察したり、さらに余裕を持って楽しむことも出来るようになった。

こころの中で呼びかけて「つながる」ことも可能な気がする。

もし誰と手をつなぎたいかと尋ねられれば、今の私はこのような「宇宙エネルギー体」!?とつながりたいと思う。

彼らが果たして「どんな目的で何処から来て何処へ行くのか?」についてはわからないけれど、少なくとも人類にとって「平和」な明るい希望をもたらすものであって欲しいと、心から願っている。


広島では、原爆の落とされた(原爆を搭載したエノラ・ゲイが目標とした)「相生橋」の上に立って、「その時刻に共に「空」を見上げよう」という、ある芸術家の「呼びかけ」などがあるそうだが、私はそれはどこか少し違うのでは?という気がする。

そのような爆撃機が到来した時に、人々はその飛行機を見上げている余裕などは全く無く、ただ必死になって防空壕や隠れる場所を探して逃げ惑っていたのでは、、と私は想像する。


だからもし、そのパフォーマンス!?を「平和」のために、また人々に「原爆」に関心を持ってもらうために呼びかけるのだとしたら、
私はその時、冒頭に記したような、「UFO」(未確認飛行体)をこそ、ぜひ見附け出して欲しいと思う。

そしたらそれを見つけた人々の意識が瞬間に切り換わる!?のではないかと、、。


そんなことはあり得ないし、「信じられない」という人ほど、もしよろしければぜひ自ら試してみて欲しい ☆

そして「常識」や目の前の「現実」だけに捉えられた意識が、もしも少しは解放されるとしたら幸いである。




下記の絵は『コール』(星の呼びかけ)です。






無断転載およびコピーはご遠慮ください。




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少年H ( 妹尾河童さん)講演会

2013-08-03 | お知らせ&催しのご紹介
映画「少年H」はまだ観ていないのですが、原作者の「妹尾河童さんの講演会」のご案内です。

時:8月25日(日)13時半~15時

会場:奈良県橿原文化会館

講演の題:「少年Hで伝えたかったこと」 

前売り券 千円
当日券 ¥1500

☆ チケットはプレイガイドや橿原文化会館でも購入出来るそうです。
★定員1300名のようですので、当日でもたぶん大丈夫ではないでしょうか。

なお、講演後にはサイン会もあるそうです♪

☆ 問い合わせ / 中和地域平和のつどい実行委員会
( TEL 0745-53-5471 )


実は私はベストセラーになった本『少年H』もまだ読んでいず(汗)、講演会までには大急ぎで読んでぜひサインを貰いたいです(笑)。

昔、確か「河童の覗いた仕事部屋」?だったかと思いますが、そのような連載があり、とても楽しみでした。
ユニークでとても詳細な、味のある俯瞰図イラストと共に印象に残っています。

妹尾河童さんのことは、私の好きな司修さんや和田誠さんと共にとても尊敬しています。
映画も早く観たいな~と楽しみにしています♪

まずはご紹介まで。



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テレパスアート余話

2013-08-02 | シリーズ「テレパスアート物語」
ずっと昔、まだ名称も「ヒーリングアート」と呼んでいて、彩色もしたり、しなかったり、、という頃の話です。


ある時、ある知人から頼まれてその人の亡くなったご両親の絵を描かせていただいたことがある。
どちらが先に亡くなられたのかは忘れたがあまり日月をおかずに続いて亡くなられ、後に亡くなられたのがお父さんだったか、お母さんの方だったか忘れたが、まだ四十九日も来ていなかった時だと思う。

私は特に仏教徒というわけでも無いのだが、描くには少し早過ぎるのでは?という気がしたのだが、知人は逆に早くその様子を知りたいというか、両親が「成仏しているかどうか?」を知りたかったのかもしれない。
いずれにしても日頃お世話になっている知人なので、絵はご冥福を祈って確かプレゼントさせていただいたと思う。


ところが、かなり後になってその方の妹さんにお会いする機会があり、その絵のことで「ショックを受けた!」とのことで、面と向かって抗議されてしまった。
なぜなら自動的に描いたその絵にはご両親が「喧嘩をして争っている場面」が出て来ていたからである。

「死んでまで喧嘩をするなんて!?」と彼女はとても私に立腹されたのだが、私としてはどう言っていいのかわからず、黙って話を聴くしかなかった。
(心の中では「一度もお会いしたことの無い何の利害関係も無い人たちを、わざわざ悪く?描く必要も理由も無く、私も出来れば美しい蓮の花の上に坐っておられるご両親を描きたかったのですが、、」と言いたかったのだが)


亡くなられたそのご両親は(彼女の話によれば)生前も仲があまり良く無くて、しょっしゅう喧嘩をしていたそうで、だからこそせめて亡くなった後は「仲良くしている両親の姿が見たかった!!」という、彼女の気持ちや切ない願いも当然だったかもしれない。

今ならもう少し上手に丁寧に説明したりすることも出来たと思うのだが、当時は死後の世界のことに対しての情報や本も少なく、私も勉強不足だったので、その彼女とは結局気まずいまま別れてしまい、以後知人とも交流が途絶えてしまったのは残念だ。


もちろん、それ以外にも亡くなった方々の絵を描いたことはたくさんあるが、かなり年月が経ってからだと、けっこう皆さんそれぞれの世界で?元気に暮らしておられる絵になったり、またもうすでに転生しておられる絵になったり、さらには驚くべきことに、過去の世界に生まれ替わっている!?という(時間軸の違う)絵もあったりした。


そういったことも、例えば私が科学に強く、もっと知識があれば、「量子論」だとか、最先端科学の情報をもって説明することも出来るのかもしれないが、今でも私はそういう方面が苦手なので、皆さんにもうまく伝えきれていない面もあることと思う。

そういうことで、「なぜこの絵がこういうふうな絵になっているのですか?」と聞かれても、直観的にはわかっていても、惜しいことに「論理的」に説明することが出来ず、テレパスアートのお客様にもご迷惑をおかけしてしまったり、怒らせてしまったり、またご理解いただけずに返金させていただくこともある。

お客様としても、別に返金を望んでおられるわけでは決して無く、ほんとうに「納得のいく説明を聴きたい」と思っておられるだけなのに、私はうまく伝えられずに納得していただけないことを大変申し訳無く感じてしまうのである。

そういうわけで、せっかく長時間かけて描いても代金すらいただけないこともあり、(決してお客様が悪いわけでは無いのに)時々「一体自分は何やってんだろ!?」とつい情けなく思うこともある。


それでも、何年も経ってから、その絵の意味がやっとわかりましたとか、「納得しました!」とご連絡いただくこともあり、そんな時はとても嬉しくなる。

だから、あの喧嘩していたご夫婦(故人)も、今ではもう少し進化した別世界?に生きておられて、もしかしたら夫婦別々の次元におられるかもしれないが、また描いてみたら違った絵になっているかもしれないとふと思う。


話が長くなってしまったが、『言霊はこうして実現する』(文芸社)を読んでいたら、(P130~137に)こんな話が載っていた。
(以下抜粋引用させていただく)


ーーーーー量子論によるとミクロの物質の未来はただ一つには決まっていないのである。
(中略)
つまり電子の未来はただ一つではなく、複数あることになる。
そして、実際に電子が一秒後にどこで見つかるかは、一秒後になってみないと分からないのである。
つまり、電子の未来はサイコロを振って出た目に従うように、行き当たりばったりに決まるのだ。
(中略)

たとえば、宇宙の果てほどに離れた粒子どうしがエネルギーの交換なしに、宇宙で最も早いはずの光速をも超えて影響を与え合うことも明らかになっている。
(中略)

さて、量子論における量子の振る舞いで最も奇妙に見えるのが、量子が異なるいくつかの状態の重ね合わせで表現されることだ。
たとえば、ある一つの電子の位置について考えるとき、「A地点にいる状態」や「B地点にいる状態」、「D地点にいる状態」などが一つの電子の中で重なっているため、どこか一ケ所だけにいるとはいえない。

しかし、その電子を観測したときには、波の収束という現象が起きて一つの状態に変化するのだという。

このように量子の振る舞いを解釈することは「コペンハーゲン解釈」と呼ばれ、量子論の基本的な考え方の一つとなっている。
(中略)

波の収縮はコペンハーゲン解釈における一つの仮定であるが、これを放棄して、なおかつマクロの世界に現れる観測結果を説明しょうとしたものが、「多世界解釈」という考え方である。
(中略)

すなわち、「電子がA点にいる世界」「電子がB点にいる世界」「電子がD点にいる世界」というように、複数の世界に分岐するということである。そしてそれらの世界は重なって同時並行的に存在していると考える。

その場合、私たち観測者自身も、それぞれの世界に枝分かれして存在していることになる。
だが、枝分かれしたそれぞれの観測者は、自分がどの世界に来ているのかは、電子を観測するまで断定できない。
実際に電子を観測して初めて「私は『電子がA地点にいる世界』にいるんだ」などと分かるのだ。
(中略)

そして、私たちの知らないところに、別の宇宙がいくつも存在し、そこには「もう一人の私たち」が暮らしているというのである。


ーーーーーーーーーーーーーー
(以上抜粋引用終わり)


そういうわけで、かなり我田引水になってしまうが、先述したご夫妻(故人)の絵も、もしかしたら私が描いたからそのような絵になったのかもしれず、また別の人が描けば別の絵になる可能性もあるというか、「別世界」にいる彼らが登場したかもしれない。
(過去、未来という直線的な時間軸では無く、今ここに並行的に重なって存在していて、例えば波のように広がったままのその中の一滴の雫のように、たまたまその泡を私が掬いあげて描いたに過ぎないのかもしれない。まさに泡のように、「幻し」のように!?)


なので、このような絵に確かな事実の証明や実態の証拠を求めるよりも、「そこから何に気付くか」ということの方が大事で、例えば「何かの物語を読むような感じ」で静かに眺めていただけたらと思う。

左脳で論理的に納得のいくようにわかろうとするよりも、右脳で直観的に掴むとか、あるいは情動的に感情が動くとか、そういった一つの体験として(映画を観た時のように)味わっていただければ幸いである。


量子論やパラレルワールドにとても興味はあるものの、理系に弱い私には難し過ぎて未だに頭は???状態なのだが、それでもだんだんにテレパスアートの描こうとしていることや、描かれた内容が、抜粋引用したような事柄と何となく繋がっているというか、同じことを表現しているのかも?しれないなと感じることも多い。

いつかそういったことも(誰にもわかるように)解明されるのが楽しみだ。



ご愛読に感謝です。


下記の絵は『サルー』です。





無断転載およびコピーはご遠慮ください。



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