安土街道 築城日誌 (安土らくらく倶楽部)

安土山下の日々と塚又商店主の日常・・・

『麒麟がくる』…どうして、佐々木六角氏の旗印が「四ツ目」じゃないの!?

2020年10月16日 | テレビ・ラジオ
☆大河ドラマ『麒麟がくる』を、毎週「安土」住民として真剣に観ています
☆云うまでもなく、近江八幡市安土町は、「織田信長」公が築城した安土城の所在地ですが、私はむしろ、ドラマの初期から、登場人物の会話の中で、頻繁に出てくる、佐々木「六角」氏に注目して観ています
☆それは、私の住む安土町大字常楽寺が、佐々木六角氏が築いた観音寺城の外港だった「常楽寺港(常の濵)」があり、また、佐々木六角氏ゆかりの沙沙貴神社の氏子でもあるからです。
☆ですが、何となく・・・、この物語の中では、「六角氏」は「三好三人衆」と共に「悪者扱い」されているように思います。残念。


☆さて、前回、10月11日の放送『第27回・宗久の約束』では、朝倉義景氏の城下町・越前一条谷から信長公のいる岐阜へ移動した足利義昭が上洛を果たすまで(永禄11[1568]年7月~9月)が、一気に描かれました(上の写真は、NHKテレビ画面より)
陣内孝則さん演ずる今井宗久も気になりましたが、ドラマ終盤で、それどころではなくなりました
☆足利義昭を奉じて岐阜を出発した織田信長公と浅井長政+徳川家康関係の軍勢(18000?)が、上洛の行く手に立ちはだかる!佐々木「六角」義賢(承禎)軍(10000?)を蹴散らした(私にしてみれば…蹴散らされた)・・・戦いです。
☆一般には、「観音寺城の戦い」ですが、主戦場が観音寺城の支城だったので、その名を取って「箕作城の戦い」とも言われています。ドラマはこちらの設定ですネ。


☆上の写真は、戦の舞台となった場所を、安土(京都)側から東方を見渡した全景です。
☆蒲生郡(現:近江八幡市)と神崎郡(現:東近江市)の境界線あたりです。
☆写真中央、少し右、山と山の凹部分を、当時の主要街道だった東山道(中山道)が通るところで、今は国道8号線東海道新幹線が走っています。
☆信長公の軍勢が京まで移動するには、どうしても、その凹部を通らなければなりません。


☆左側の山が、佐々木六角氏の観音寺城があった繖山(観音寺山)です。☆山頂直下には、西国第三十三番札所の観音正寺があり、そこから西側に観音寺城址が続いています。
☆この城から中山道に睨みを利かせていたのです。


☆次に右側の山ですが、「清水山」と云い、この山の南西に尾根続きで「箕作山」があります。
☆大河ドラマで取り上げられた「箕作城」は、箕作山ではなく、清水山にありました。


☆現地には登った事は無いのですが、写真の清水山の山頂に鉄塔が建っていますが、その山頂の鉄塔とその左側の鉄塔の間辺りに今でも、石垣の跡らしい石が残っているようです。


☆その箕作城での戦い(1568年9月7日)がドラマの終盤で、一瞬(5秒?)描かれます。
☆その映像を見た私は脳裏に大きな疑問が発生しました
☆何と、蹴散らされる「佐々木六角」氏の旗印(家紋)が、どういう理由なのか『鶴・丸』なのです
☆私が子供の頃から、慣れ浸しんでいる「六角」氏の家紋は『隅立て四つ目』なのに。これは何でや (上の写真は、NHKテレビ画面より)


☆録画を何回も見直しましたが、疑問は解決しません(上の写真は、NHKテレビ画面より)


☆その後、2つ日間調べましたが、疑問は解けず、火曜日の夕方、とりあえず、毎月曜日に、夕方のニュース番組『おうみ発630』で、「麒麟がくる」のコーナーを設けている、NHK大津放送局に「問い合わせメール」をしました。
☆今日現在、お返事はありません。
☆それで、本日夕方、NHKの本社?へも、問い合わせメールをしてみました
☆その理由が何なのか、返答が楽しみです

☆ドラマとは別に、この「観音寺(箕作)城の戦い」の事で他にも疑問があります。
☆上洛する、足利義昭は信長軍と一緒に来たのか?それとも、戦いが終わってから、少し遅れて「安土」に来たのか?
☆その時、足利義昭は古刹「桑實寺」に遷座したというが、その後の上洛のルートはどこだったのか?琵琶湖を渡ったのか?陸を歩いたのか?
☆そのルートは一説には・・・、私の住む「常楽寺(常の濵)」から舟で琵琶湖の対岸(坂本?)まで渡ったとも伝わるが本当なのか?などです。
☆それでは、本日これまでゴメン

☆見逃した人は、17日午後の再放送でチェックしてください。





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