・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

普通が安心

2011年12月16日 | つぶやきの壺焼

スーパーの前にワゴンセールが出ていて、ウニの瓶詰めを売っている。
○○○の名に引かれて二歩後戻り、値段の表示を見る。
「○○○の粒ウニ 1300円→100円」と書いてある。
1300円→1000円の見間違いではないかと、もう一度よく見る。
確かに100円、瓶の外から見た限りでは、きれいな色をしていて変質の様子もない。
しかし値下げが乱暴すぎ、どこか普通ではなさそうだ。
海産物の生は、当たるとひどい目にあうので、買うのはやめた。
後から考えると、もう一つの見間違い方もあった。
マイナスを矢印に見てしまう、1300-100円、まさかとは思うが。

出先で面白い旗を見つけた。
普通の店ですからと書いてある。
昼ひなかのこと、シャッターは開いていない。普通の開店時刻にはまだ早すぎた。

ものの値段も店のありようも、普通がよい。
普通は安心のしるしだから。


あるいはミステリアス:2

2011年12月15日 | つぶやきの壺焼

昨日の写真はかもめが遠すぎて失敗した。
かもめがもう少し手前にいてくれればよかったのだが。
ここからズームで引っ張ったのでは手前のタイヤ痕が写らない。
うしろにぐっと下がって引っ張るとどうなるか。
かもめはそれほど付き合いがよくないから、試すいとまはない。
だから、かもめが手前に寄ってくれるよう祈るしかない。
しかし願いがかなって、こんどは大きく写ってくれた。

それはうそ。
写真はどんな細工もきくようになった。

覚えのない写真を、これが証拠などと突きつけられても、恐れることはない。
それが本物であるという証明は、その写真ではできないのだから。


あるいはミステリアス

2011年12月14日 | つぶやきの壺焼

なんでもない風景が心に隙間風を呼び込む。
その思いは瞬間に消えてしまうから、写真や文字には現れない。

車の痕が消えているその向こうには、かもめが一羽。
こんなことを書き加えて見せるような写真はC級。

冬の隙間風は冷たいが、夏なら心地よいだろうか。
夏は海水浴場になるこの海岸では、こんな水際まで車を乗り入れることはできない。
かもめも近寄っては来ない。


へばりつく

2011年12月13日 | つぶやきの壺焼

べたっとくっついてはがれ難い状態になることを「へばりつく」という。祖母がよく使っていた言葉だ。
「また、こたつにへばいりついて」

ある辞書には「こびりつく」と言い換えだけが出ているが、もう一つの辞書には「離れずぴったりとくっつく」となっている。
「こびりつく」は少し違うような気がする。
言葉は説明の代わりに言い換えを持ち出すと、意味がだんだんずれていく。

ブロック塀にへばりついた山茶花を見かけて、あまり使う機会のないこの言葉を思い出した。


仕掛かりの妙

2011年12月12日 | つぶやきの壺焼

曲線道路の半径拡大工事がもう完成も近いだろうと行ってみた。
軽トラが通り抜けないように防禦はしてあるが、どうやら今年は歩道部分が出来上がったところで終わりらしい。
そうか、道路工事というものは、交通の便とか安全とか、そういうことは結果として得られることで、主目的は施工実施による計上予算消化にあったのだ。

随所にある工事対象の、ある一箇所を集中的に完成させようとすると、その施工者に工事費がまとめて支払われる。
それでは地域活性化政策上まずいのだった。


伝達

2011年12月11日 | つぶやきの壺焼

駅に看板がかかっている。
近頃の看板には外国語の表示も併記するようになった。

日本語は5行、英語は4行、韓国語は5行、中国語は3行。
文字の数が少ないほど文字が表す内容の伝達効率がよいと見れば、日本語のそれは中国語の60%ということになる。

こういう場合に使う日本語は、丁寧すぎて効率がよくないのだろうか。
何々していただいてよろしいでしょうか、といういま流行の、人を馬鹿にしたようにさえ聞こえる丁寧珍語がその代表格のようだ。


予感

2011年12月10日 | つぶやきの壺焼

住宅地の庭に、今年も芽を出さずに終わった樹が立っている。
樹木には、芯の幹の太いところを切っても残った幹の頭のところから芽をたくさん吹き出すものと、枝先のほうを少し残さないと立ち枯れになってしまうものがある。
どちらかの見極めをつけずにむやみに枝を切り取ってしまった結果はたちまち現れる。
樹が枯れてしまうことを望んで枝を切る人はいないから、造園業と名乗ってはいるが知識を持たない人が、役所の仕様書どおりに「○○住宅地樹木選定工事」を委託され忠実に実施した、その結果ではないかと想像する。

よく見るとこの樹は、どこか来年の干支を思わせる形をしている。
しかし、立ち枯れた樹に潤いはない。
あまりよい予感ではないが、もうひと月も経たずにやってくる年にも、潤いは感じられそうそうにない。


出張

2011年12月09日 | つぶやきの壺焼

海外長期出張、公費で旅行ができるありがたい話。
むかしは、選ばれた人が大いなる目的をもって出かけたものだった。
いまは目的もさまざまに変化する。

逃亡ではないが、この人にはある期間日本にいてもらわないほうが都合がよいという適時退避が内実目的、現地実態調査が外面目的というのもあるらしい。
強い発言力と豊富な情報をもった重要人物が、公式の場で発言を求められては困ったことになりそうな場合に使われそうな手である。

人間の知恵は、悪いほうには惜しみなく働く。
「聖者の行進」などという日本語に訳した曲名が使われなくなって、セイジャノコウシンを「正邪の更新」と聞き取ってしまうほど、正真邪道の分別が怪しくなると、長期出張の目的など、どのようにでも使い分ける悪知恵が、ある世界に入ると自然についてしまうもののようである。


集中

2011年12月08日 | つぶやきの壺焼

細い道を車で進む。正面から車に向かって歩いてくる人がいる。
スマホを見ながらゆっくり歩いてやってくる。
超低速にして進む。向こうは気づかない。
あと1メートルに迫る。それでも気づかない。
クラクションをごく短く鳴らす。やっと顔を上げ、何だと言いたそうな顔をしてこちらを見る。
俺の行く先に車を持ってくるなという顔。
ミスター・スマホは、そこでようやく脇によけ、すれ違う。

駅のホームでも、スマホに夢中になって、線路に落ちる人がいるらしい。
集中しているときには体が堅くなっているから、酔って落ちるよりもっと危ないだろう。

道路交通法を改正して、スマホ歩行を禁止せよ。


未完成

2011年12月07日 | つぶやきの壺焼

今日は大雪、雪国の方には寝言に聞こえると思うが、おお雪はありがたくない。

人の集まりも、モノも、大きさは力を想像させるが、案外そうでもない場合がある。
大掛かりなものは、どこかに、作った人の気づかない、手の回りきらないところができるものだ。

ハンバーガーもやたらに大きなものは、どこから手をつけ、かぶりついたらよいのか迷ってしまう。
食べ方を考えなければならない料理は、さほど出来がよくないのだと思う。
素直に手が出て食べやすいのが優れた料理だ。

食べる途中で何か作業の必要なものは、まだ料理としては未完成だろう。
食べる人に何か仕事をさせながら食べさせるのは、味の欠点に気づかせない一つの方法なのかもしれない。
焼肉、バーベキュー、お好み焼き、それぞれにどこかが怪しい。
そんなことを思いながら、昨日は孫の誕生祝の焼肉に付き合わされた。


カシミヤブラシ

2011年12月06日 | つぶやきの壺焼

冬、カシミヤの季節がやってきた。
そんなしゃれたコートを持っているわけではないが、むかしデパートにコートを見に行ったとき、「こういうのを着てみていただきたいのですが」と勧められたことがあった。
軽い、暖かそう、これなら肩もこらないだろうと思ったが、通勤電車向きではないので丈夫そうなのにした。
あの試着の感覚は、本当に美味いものの味は忘れられないのと同じ、まだ残っている。

カシミヤブラシというものがあるそうで、上等のクリーニング店で使っているという。
カシミヤの毛でできたブラシではなく、白い馬の毛で作ったもの。カシミヤの衣類の手入れによいので、その名をつけたらしい。
浅草の老舗のブラシ屋さんで売っているという。
癖の異なる天然毛を巧くそろえて植えるには、製造工程の全面機械化はできない。
だから本体価格はちょうど1万円。
衣類が傷まず、ブラシも一生使えるというから消費税の上がらないうちにどうぞ。
 
http://h.nikkeibp.co.jp/h.jsp?no=016770


手抜き

2011年12月05日 | つぶやきの壺焼

しゃれた形の屋根は雨漏りしやすいという話を、屋根屋さんから聞いたことがある。
片側だけに大きく流した、これならソーラーパネルを貼るのにもよさそうだという住宅がある。
そういう建物で雨漏りがあって、屋根の最上部に貼ってある垂直の雨よけ板をはずしてみたら、内側には防水措置がまったく施してなく、いきなり屋根板の端の重なりが現れたという。
こんな、素人でもびっくりするようなひどい構造の建て方もあるらしい。

こういうのは手抜き工事というのだろうか。
手抜き工事というのは、設計どおりに出来上がっても、施工過程のどこかで手を抜いて、いわゆる施工の合理化をはかり、利益を生み出すものかと思っていた。
こんな設計がまかり通るはずはなく、設計どおりに出来上がってないと思うのだが、何でこうなるのだろう。
建てた人間の魂が抜けてしまっていたのか。
それでは手抜きではなく、タマ抜けではないか。


退化か

2011年12月04日 | つぶやきの壺焼

動物の木登り運動機能は鎖骨の働きで、木登りができない動物は鎖骨が退化したのだという説がある。
木登りのできない動物は、はじめから登る必要を持たなかったから、その機能が発達しなかったのだろう。
それなら、退化ではなく未発達ではないのかとふと思った。
未発達は、まだこれから発達の余地があるのだとすれば、未発達でもなく、発達対象外か。こういうのをなんと呼ぶのだろうか。

必要でないことをできないのは、別に劣っているわけではなく、必要でないことをできるのが、特に優れているのでもない。
必要でないことをやって見せて、ひとを喜ばせるのがエンターテインメントらしい。
面白さというのは、どうでもよいことをやってみるところにあるようだ。


理解

2011年12月03日 | つぶやきの壺焼

小中学生に先生の評価をさせたらどうかと言った人がいる。
評価の仕方は、授業がわかりやすいかどうか、それなら生徒にもできるだろうとその人は言う。
しかし、わかりやすいかどうかぐらいのことで先生の評価をしてよいのだろうか。これは至極怪しい論法ではないかと思う。

話を理解する方法を持たない生徒が大勢いる小中学生に、理解のしやすさを先生の評価要素にさせたのでは、見当違いの評価結果が出ないだろうか。

理解しにくければとりあえずそういうものかと覚えておけばよいことはいくらでもある。
自分の頭の悪さにはまだ気づかない子が多い年代だから、頭の悪さを棚に上げてという表現が適切ではないにしても、わかりやすさの工夫ばかりでは、よい授業はできないだろう。
わかりにくいことに自力で考えていってこそ、考える力がつくのだ。
わかりやすさの追求は、ものの値段の安さの追求と似たところがあって、供給側の質の問題にもかかわってくる。
わかりやすさを目指すことが、全体の質と水準の向上に向かうとは限らないのだから。


ねじれ

2011年12月02日 | つぶやきの壺焼

ねじれはとかくむずかしい。

2月にニュージーランドで起きた地震では、大きなビルが壊れた。
その原因が揺れて崩れたのではなく、ねじれが原因らしいという。
エレベーターはビルの装置の中でも故障が置きやい。
その部分を強固にしておいたら、それが裏目に出て、建物の偏心が大きくなってねじれが起きてしまった。
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20111117/555548/

ロープ、電線など細長いものは、ねじれのあるままで使っていると、たちまち傷んだり切れたりするから「キンクに気をつけろ」とよく言われた。
禁句ではなく、口をすっぱくして言う金言だった。

つなぎ目とねじれに気をつければ、モノの故障はグンと減る。
いまの議会のように、つなぎ目でねじれていたのでは、始末が悪い。
おまけにそこで、ねじれを緩めるのでなく、さらにねじれを強くして、自分が目立つようにと考えていたのでは、なかことが進まないのはあたりまえなのだ。
ねじれの最も効果的な解消法は切断だが、どこで切るか、いつ切るか、答えが簡単に出ないのがねじれの面倒なところだ。