何の役にも立たずに、ただそこにあるものをトマソンと呼ぶそうだが、トマソンには説明不能な愛嬌が感じられ、無駄とはどこかが違う。
愛嬌も何もなく、ただそこにあるだけ、してみただけ、そういうものごとこそ真性の無駄と呼んでよいのだろう。
時間を無駄に使って、身の回りにどんな無駄があるかを考えてみた。
まず、セットになった商品、これには役に立つのは一部分だけというものが多い。
電動工具のセットがある。
頑丈なケースに、ドライバー、ボックススパナー、ドリル、研磨用具などがずらっと並んで入っているが、買ってから実際に役に立ったのは、ごく一部だけ。
ドリルの中には、刃の立っていないものもあって、1本買いのドリルのほうが役に立った。
こうなるとバラのドリルを入れた小さいケースも、この工具セットのケースに入れておきたくなる。
その空間は、何かに退いてもらわなければできないから、まったく使う見込みのない部品には退去願うことにし、それらは埋め立てごみになって消えていった。
釣りでもするなら袋に入れて錘になったかもしれないが、あいにく魚釣りの趣味にははまり込まなかった。
TVショップでも、これもつけますあれもつけますと、なくてもよいものをつけて宣伝するのをときどき見かけるが、やはり無駄もののほうが多いだろう。
無駄になりやすいのは、どういうものだろうか。
そう、「セット」だった。
「トマソン」「セット」
禅問答の掛け声に、どこか似ているではないか。
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