神話という言葉の使い方にはふたとおりある。
ウィキペディアによれば、この世の始まりのことがらを「一回限りの出来事として説明する物語」が神話であるとしている。
神話と名づけられないうちは、疑いをはさまず、真偽など気にせずに聴きとってきた話を数多く聞いた。
多くの人が信じて疑わない話とは別に、本当でなかったら大変だと心の隅では思いながら、疑いを持たないことが常識のようにされてしまう話もある。
安全神話という奇妙な呼ばれ方をしているのがそれである。
安全とは逆のこと、つまり危険性のことは考えないように、あってはならないことが、考えてはならないことに入れ替わってしまった話とでも言おうか。
どこかで事故が起きると、方式が異なるからそういう事故は起きないと説明される。
異なる方式にはそれ独特の心配ごとがあるはずなのに、そちらには眼を向けないように話が組みたてられる。
「同じ事故は起きません」と言われると、それが言うはずもなく聴いてもいなかった「絶対安全」という言葉に変換され、御幣のように頭にこびりつく。
そもそも「絶対安全」という言葉ほど危険なことはない。
「絶対安全」と宣言してしまえば、後になって気づくことにも、こういう心配があるからと説明することも、手を加えることも、すべて許されなくなる。修正は絶対と矛盾するからである。
「絶対」と言っておかなければ「こういうことがあらたに判明したから」と説明も改良もできる。
科学・技術の世界の片隅にでも身を置く者は、「絶対安全」などというばかげたことを言うはずはないのだ。
「絶対安全」「絶対保証」などという狂気さながらの言質を、聞く耳側の気休めのために求めてはならない。
「心配事は覚めて聴け~~」と神の声が聞こえる。
安全神話とは、当事者の発言から生まれるものではなく、それを望む人々の心の動きによって、誰かが語ったものでもないのに、そういう話があったかのように作り上げられたおはなしなのだろう。
もともと安全神話という呼び名そのものがゾンビではないかと思えるのだが、どうだろうか。