水に流す、どちらかと言えば心が広いようにも聞こえるが、度重なれば何かにつけていい加減にも聞こえる。
とかく水の上で起こったことは水に流れやすい。
どういう状態であったかをとらえるには、録画があればそれがいちばん。
そのいちばん確かな情報を、とっておきのものとして重宝がるあまりに隠しても置きたがる。
情報を持っていることが武器になると思っていると、有効なときに出しそびれ、持って隠して置くにつれ価値の下がることもある。
もったいをつけて、ぐずぐずしているうちに、だれかが痺れを切らせて流出させる。
皆でいつ見るか、どこで見るかと悩んでいたことが、まったくの時間のむだ使いということになる。
誰でもが見られるようになってしまうと、こんどはどうして出てきたと騒いでみせる。
流れたと思ってもらえればおめでたいことだが、流したと言われれば怒って見せなければすまなくなる。
削除命令など出したころにはとうに削除されている。
命令も削除実行も、カッコツケだけの効果しかない。
心ある人は、そのころには映像も音声も自分で保存している。
見ることが、ことの本質を見極めるのにどれほどだいじかがわかる。
映像を見れば、ヤンチャな船長の思いつきのいたずらではなく、やらせられていることがよくわかる。
だいじなことを水に流し続けていると、日本の国もまもなくどこかに流れていってしまう。永田町の皆さんには、へらへらしていてもらっては困るのだ。