6日の夜、突然神殿お守所から電話があった。
明日緊急事態宣言が出る予定なので、遠方の詰員先生には緊急事態宣言が終わるまで欠席して頂きますとの事であった。
そして、南礼拝場のみ開けて神殿奉仕をすることを、同じ詰員先生から聞いた。
大変な事だなぁと思っていたら、7日同級生から、礼拝場前の写真が送られてきた。
ご本部も大変苦労をされているなぁと思った。
急遽、神殿奉仕が無くなったので、支部例会後に臨時役員会を開くことが出来た。
これもありがたい事と思った。
6日の夜、突然神殿お守所から電話があった。
明日緊急事態宣言が出る予定なので、遠方の詰員先生には緊急事態宣言が終わるまで欠席して頂きますとの事であった。
そして、南礼拝場のみ開けて神殿奉仕をすることを、同じ詰員先生から聞いた。
大変な事だなぁと思っていたら、7日同級生から、礼拝場前の写真が送られてきた。
ご本部も大変苦労をされているなぁと思った。
急遽、神殿奉仕が無くなったので、支部例会後に臨時役員会を開くことが出来た。
これもありがたい事と思った。
今日は4月6日(月)今日の夕方、ようやく天理時報4月5日号が郵送で着いた。
同じ区内の教会では、土曜日の夕方についたとの事で、心配したのだが、無事に着いてよかった。
新型コロナで配達が遅くなったのだろう。
内容を見ると、先月の月次祭の様子が書かれており、真柱様のお言葉が書かれていた。
その中で、「こうして与わった状況の中で、教えられたことを実行していくのが私たちのつとめ。」を見た時に、教えられていない人もあるのでは?と思ったのである。
修養科に入れば、授業で教祖のみちすがらを学ぶ機会はある。それは授業があるから。。。
そうでなければ、どこで話を聞くことができるだろうか?
私は、専修科で教祖伝を学ぶ機会を得たが、私の子供たちには学ぶ機会はない。
また授業として、『稿本天理教教祖伝』を学んだとしても、良く分からなかったというのが正直なところだ。
あれから、40年近く年限が経つ。
身上や事情の解決を求めている中に、専修科で学んだ事か、または当時読んだ本なのかは定かではないが、神様のお言葉がふと思い浮かぶ。
十数年前は、天理教も教理についてこうしたネットで盛んに議論されていて、その渦中に私もいた。
うろ覚えな神様の言葉が、どこに書かれていたかと出典を探し求めた。
そうした中に、一つの本に出合った。
それは、『先人の遺した教話(3) 根のある花・山田伊八郎』である。
その中に、教祖が最後のご苦労に行かれて、戻られた時の様子が書かれているものを見つけた。
敷島の人々が教祖にお喜び頂きたいと、12下りのおつとめをしたのが最後のご苦労のきっかけであったが、教祖は「一の筆やな」と言われて喜ばれた事がずっと引っかかっていた。
しかし、この本を読んで理解できた。無言のお仕込みを頂かれた山田伊八郎先生は、一言一句漏らさないようにと、教祖のお言葉を書き留められていたわけである。
そして、この後の頁で、その時教祖は耳も聞こえない状態であった様子が伺われる。
今、コロナで自粛の時、家で本を読んで勉強するのも大切だと思う。
この本は、今現在、売られている本です。
昨日、このコロナの事から、離婚に発展している記事を見つけた。
序と結論をコピペしておく。
・・・・・・
「実は今、離婚に向けて準備を進めているんです」
席に座るなりこう切り出したのは45歳で2児の母の茜さん(仮名)です。
普段から夫婦喧嘩はほとんどなく、夫婦関係にトラブルがあったわけではなかったといいますが、年明け頃から夫の精神状況がだんだんと不安定になってきて、一緒にいることに恐怖を感じるようになってきたといいます。
■生活不安が増幅し、精神不安定に…
「夫は自営業で、都内で飲食店を営んでいます。1月はもともとそんなにサービス業はいい時期とは言えないのですが、2月頃からコロナの影響もあって売り上げが通常より40%くらい落ちているようなんです。お店をオープンして20年くらい経つレストランバーでテナントビルも古いですし、内装も汚れて古くなってきたので、オリンピックも意識して、昨年の10月にリフォームしてリニューアルオープンしたばかりなんです。その返済が年明け頃から回らなくなってきちゃって……。
しかも、この状況がいつまで続くかもわからないので私も不安ですし、何しろ夫の精神状態が今まで見たことがないくらいおかしくなってきてしまってるんです」
連日状況が変わるコロナへの感染不安、そして経済的不安を訴える方はここ1カ月でどっと増えました。 学校の休校措置でストレスを抱える親御さんも少なくありません。 茜さんのように生活に保証のない自営業のお宅にとって、先の見えない生活不安はとても大きいです。
・・・中略・・・・
普段仕事で忙しくてなかなか家族とのコミュニケーションを取れていないという方、家で子どもに学ばせてあげたいことを普段伝えられていないと感じている親御さんは、今こそがチャンスです。
何か1つのものを一緒に行う、同じ目的をシェアすると、結束力が増すものですので、これを機に、ぜひ休みの日の過ごし方のスケジュールやルールを決めて、こういったときだからこそできる家族とのコミュニケーションや家族の時間を築いていかれると、将来子どもたちにとっても、ずっと一生心に残る大きな経験になるはずです。
不安が広がる今、生活環境が180度変わってしまったという今こそ、発想の転換力が必要なときです。“今”がずっと永遠に続くわけではありません。今あるイライラや不安も一生続くわけではありません。不安定になってしまっている心も“今”だけの感情かもしれません。
このようなときこそ、一人ひとりが「これからどう生活を切り返していくべきなのか」を再度見直していく機会にして、生き抜く力をつけたいものです。
鈴木 まり :生活カウンセラー
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とあった。
正しく、不安でいてもたってもいられない。また目に見えないウィルスを怖がって、人と会うのが怖いと閉じこもる人もあるだろう。
また、「こうした時こそ何とかしなければ」と思うものの、一人の力など知れたもので、自分の力のなさを卑下して精神の不安定になる人もないわけではない。
また、そうした人たちを身近に抱えて、どう対応したらと、日々を暮らす人もあると思う。
日本だけを見たとしても、これまで、幾度と大震災、大災害を経験して、助けられる側、助ける側を経験したと思う。
これまでの、震災、災害は、物理的な災害であったが、その中でも、精神の動きは大変なものがあったと思う。
先にも述べたが、被害に遭い、助けられる側の精神もさることながら、助けようとする側の精神状態も大変なものだったと10年近くたって、気が付いた。
実際、私自身も、東日本大震災の時は、いてもたってもおられず、必要と思われる救援物資を埼玉まで運んだ。また、自分一人では到底行けないところを、同級生の力を借りて、何かさせて頂けることはないかと、被災地へ見舞いに行かせて頂いた。
そして、手伝いをする中、発電機を下す時に、椎間板ヘルニアが出て、その後入院することとなった。
この時の事は、旧のブログに書いたと思うが、完全に椎間板が神経を押しつぶして、激痛の中、手術を待つのみだった。
そうした時に、数度不思議な体験をして、最終的には手術をせずに痛みが治まった。
その時には、自分の力の及ばない事、何でもできるように自分を過信していた事に気が付き、自分たちは生まれ変わり出変わりして、現在の状況を与えられている事、そしてこうした事から学ぶことが大切だと痛感した。
それからは、自分の役目はと考えて、自らが動くのではなく、動く人をサポートするように心がけることにした。
また、その後、親神様の思いをと、教理に探る中に、
「こころしずめて」とか「こころすまして」また「こころおさめて」という言葉が、いたるところに見られて、人の心を静める事、冷静になるようにと、導かれている事を知った。
「かしもの・かりもの」の話や「元の理」の話は、人間からの見方ではなく、親神様からの見方を説かれたもので、親神様からの思案をする手立てとなると思ったのである。
また、「八つのほこり」は自分の性分を知る上の定規で、これで自分の性分・性格を知っていたらば、冷静になるのが早いと思う。
先の記事の中にあった、経営に対する不安。これも心を乱す元であることは十分理解できる。
だけど、その不安を除く方法はあるはずで、それが、人と話すことや、自らの思いを書いてみる事だと思う。
不安はどんなことでもある。しかし、不安があるから親神様に願うのである。
「願う誠に現れる姿が神の姿」と教えられる。願う中に不思議が見える。
そして、親神様を中心とした考えが出来れば、陽気ぐらしは出来ると思う。
また、
自然の力に逆らわない事。そのためには、自然を知る事が大切だと思う。
そのための知恵で、科学・数学などの学問があると思う。
信仰も同じ、信仰とは、人間としての歩む道、また自然の法則を教えてくれている。
それを知っていれば、いざという時に思い出し、役に立つ。
「信仰は転ばぬ先の杖」と教えられた。ただ願うだけではなく、理を知る事。
その理を知らせたい。教えたいとされたのが、親神様である。
どうぞ、親神様、大難を小難にお導き下さい。
名城公園の桜の花が、今日の日差しでほぼ満開になりつつある。
名城公園の内の道路は、11時から朝の8時までは駐車が許されている。
夕方、通ると通常のようにたくさんの車が停まっていた。
しかし、園内は通常よりも少ない人が、散歩を楽しんでいる。
例年の出店も出店しているが、夕方早々に片付け始めていた。
儲けにはならないだろうなぁ。と思いつつ、通過した。
そして、栄を抜けて、大教会へと向かった。
栄の町も人通りは少ないが、それでも結構な人が歩いていた。
マスクをしている人がほとんどだが、していない人もある。
そうした中に、警備員をして人を見かけた、女性だが、マスクをしていなかった。
アルバイトのような感じだった。
現在まだマスクはなかなか買えない。テレビで、布で作るマスクを紹介していたのを思い出し、
マスクを買えず、作れない人もあるだろうなぁ。そうした人は、心配をしながら働いているのだろうなぁ。
と思いつつ走った。
昨日は、このコロナの事から自分自身が新たに気付いた事を書いたが、この騒動から様々な業界の裏側がどんどんさらけ出されているようにも思う。
このコロナの騒動が始まる前、11月末におぢばに団参をした。
そこで、初めておぢばへ帰った方に不思議を見せて頂いた。
このブログに書いたかなぁ。
半月板を損傷されていて、足が痛い中、おぢばがえりをされた方で、私が少しお話をさせて頂いて、おさづけをさせて頂いたところ、それから痛みが無くなった。と喜んで頂いたのである。
後日その話を、誘った人から聞いて、親神様・教祖は常に見て下さっているから、おさづけをさせて頂きましょうと、信者さん方に話をしていた。
そうした中に、このコロナの騒動が始まったのである。
そして、先に書いた、おふでさきのコレラの話を、信者さん方に話をして、ともかく些細な事でもおさづけを、そして、自分の出来る事を、と話をしてきた。
これまでにも、医者にも見放された人々は、神様にすがるしかなく、そして誠の心で願い、助かってきた人が多くある。
これが事実である。
けれども、こうした話を信じない人もいる。
形は同じでも、心によって現れることが違ってくる。これに気が付けばと思う。
けれども、中々、自分の心さえ分からないから、分からない。
どれだけ言い訳しても、うそは、うそとして神様は受け取られる。
出来ないけれども、何とかと思いする中には、真実がある。
出来なければ、出来ないという事は素直である。それはウソにはならない。
心から努力して、出来ずに謝れば、そこにはウソはない。
人は真実を見て、助けてくれる。けれども、これに味をしめて、努力せずに謝るようになれば、それはウソツキとなり、人は見放すようになる。
また、うそをついて、そのうそをかくすために、さらにうそをつくことにもなる。
おふでさきに
いまゝでハとのよなうそもきいていた
もふこれからハうそハきかんで (12-111)
これからハうそをゆうたらそのものが
うそになるのもこれがしよちか (12-112)
月日にハうそとついしよこれきらい
このさきなるわ月日しりぞく (12-113)
とある。
これは、言われた事を、その時はハイと言いつつも、やらずにその言い訳をした時に、親神様は、はじめは見逃して下さっているが、これは親神様にうそを言ったことになり、最後には「うそをいったらその者がウソになる。これを知っているのか。」といわれて、(月日とは親神様の事で)親神様は「うそとついしょう」これは嫌いである。と言われている。(ついしょうとは、追従と書き、おべっかである。)そして、そうした先には、親神が退くといわれる。
私たちの身体は自分の力で生きているように感じているが、この体自体が、親神様の働きがあって動き、生きていくことが出来るのである。自分で意識しなくても自然と、けがが治る。これはまさに親神様、自然の力があってこそなのである。
この働きが退くということは、死を意味する事となる。
だから、そうなる前に、心を切り替えよ。自分で生きていると思い込んで、自分中心の考えから、もっと周囲の事を見れる心に切り替えよ。人の痛みが分かる人になれ。悟れ。と様々なメッセージを投げかけている。
この教えを知っている者の心も、知らぬ者の心もすべて平等に親神様は受け取っておられる。
感じたことを大切に、一日一日頑張ろう。と思う。
親神様、大難を小難にとお導き下さいませ。
1日は、久々に運転のアルバイトに午前中だけ出かけた。
あとは多分無いとの事。こんな状態では、支払いに追われる人々には大変な事だと、体感した。
名古屋城の周辺の桜は、7分ほど咲いている。満開にはもう少し。
そして昨日は、支部長会議で教区へ。
車は娘の入寮のために使えず、地下鉄で出かけた。
名城公園を抜けて、地下鉄を乗り継ぎ、鶴舞公園を抜けて。。。
とても良い花見をしながら(^^)
通常ならば、どちらの公園も夜の宴会のために場所取りで大変なところである。
しかし、そうした場所取りは一切ない。
ただ、小さなお子さんたちを遊ばせるお母さんのグループ。
そして、大学の授業を終えた学生が、ちらほら花の下にたむろっていた。
ただ気になったのは、サッカー場での練習である。どうかこの中に感染者が混じっていないようにと願いながら歩いた。
しかし、本部の月次祭以後、雨や雪が多くてすっきりしない天気が続いたが、この4月2日は快晴。
しかも、風が強くて、散歩で新型コロナも飛ばしてくれるように思った。
また、地下鉄では、マスクをしている人がほとんど、また間隔をあけて座っていた。
親神様、大難は小難にとお守りくださいませ。
新型コロナが日本に上陸してから2カ月近くなる。
当初は、日本の外の話、また一部の人までで、手洗いなどをしていれば大丈夫だろうと思っていた。
しかし、潜伏期間が長くてすでに海外の旅行者と共に入り込んでいた。
全く未知のウィルス。対処が全く分からない。
これが豚や鳥などの家畜ならば、殺処分という事で感染を食い止めてきた。
しかし、人間ではそんなことは出来ない。
そうした中に、いち早く情報を察知して、人の出入りを制限して対処した台湾がクローズアップされた。
日本には入り込まなかったウィルスでの経験からであった。
しかし、世界では、人の出入りを止めることは、経済活動を止める事で、それでは大変な事になると、人の流れを止めなかった。
そして、世界中で感染爆発が起こっている。
そうした中に、日本は感染爆発が遅れている。
世界で感染者が出るよりも早くに感染者が出たのに、爆発に至っていない事にこれまた世界が驚いている。
とても不思議であると。
そうした中に、世界の様子またウィルスに対する情報を軽く見た人々によって、首都圏で感染爆発が起ころうとしている。
以前に、こうした未知のウィルスなどが蔓延することは、親神様の残念の現れと書いた。
人間の知恵力ではどうしようもない事。これが親神様・自然の力である。
これの治め方は何か。
誠真実である。
我が身どうなってもという、誠の心に親神様はお働き下さり、世界の上には新しい知恵を授けて下さる。
そして、収束を迎える。
この我が身どうなってもという心は、人のためにという事がこの言葉の前にある。
医薬に従事する人が、懸命に我が身どうなってもと、研究し、亡くなろうとする人に尽くしている。
素晴らしい事である。
反対に、自分は大丈夫だとおごり高ぶっていると、自分のみならず、人までも危険にさらす。
これがこうしたウィルスの働きである。
今、外出を制限されて、我慢の限界という人もあるかもしれない。しかし、
戦争中には、もっと我慢を強いられるはずである。
また、
戦争は相手があり、そこには恨みや憎しみが残る。その恨みや憎しみはいずれまた仕返しとして争いを起こすことになる。これでは、いつまでたっても争いは収まらない。、
けれども、これがウィルスでは文句のつけようはない。人を恨むことは出来ないはずである。
これまでも、隣人を愛せとか、恨みや憎しみを捨てようなどと、色々な宗教で説かれてきている。
けれども、人々はそんな話に耳を傾けることはない。
食べ物が豊かに与えられる人に、物を大切にしましょうと言っても、こんなにたくさんあるのに、そんなことを言う事はおかしいと言うのと同じである。
そうした人は、物が与えられなくなって、初めて物の大切さを知る。
人間は助け合って生きていくものである。助け合わなければ生きられないのである。
それなのに、争っている。
お金は、本来は人と人とを物の代わりにつなぐものである。それが、お金によって人と人は争い、妬み恨みを募らせている。
どれだけお金があっても、食べ物を売ってくれなければ得られないのである。
ましてや、どれだけ食べ物があっても、食べれる体がなければ、食べられないのである。
この4月にははえでのおつとめがつとめられる。今年は4月16日につとめられる。
はえでのおつとめは、農家の人々が十分に物を取れるようにと、穀物の芽が十分に出るようにとのお願いづとめである。
そのあとに、肥のさづけ、虫払いのおつとめ、雨ごい、雨預けのおつとめなどを教えて、農家の人々が高い肥料や農薬などを使わなくても、誠真実の心があれば、豊作にしてやろうとされたのである。
先日、このコロナが中国でひと段落下というニュースと共に、虫が大発生して農作物が大打撃を受けているニュースを見て、上記の事を思い出したのである。
もう一つ思う事がる。
それは、親神様はこうした惨事が起こる前に、先に書いた「おふでさき」や「おさしづ」によって知らされている。
あまりにも、こうした惨事は親神様の残念の現れという事に焦点を当てすぎて、この事について思案されていないように思う。
どういうことかと言えば、この「おふでさき」「おさしづ」を当時見ることが出来た人というのは、本部に近い人だけであるという事である。
今でいうならば、このお道の話を知っている人という事になる。
色々な不思議な御守護を見ても、親神様が望まれることは、人間離れした、これまでの人間には考えたこともない事をばかりであった。常識として考えることが出来る人ほど、不思議は知っていても、親神様の言葉は理解できなかった。
だから、その通りにやろうという人はほんのわずかであり、ましてやそんなことは出まかせだと、反対攻撃をした人が多かったのである。
そうした中に、予言をして、それがその通りになることで、親神様の存在を示した。そして言葉に沿う事を求められたのである。
ここが、うちの者に何よりも大切な事だと思う。
「どんなことも天の帳面につけてある。余れば返す。足らねばもらう。」この言葉はお道の者は皆聞いている話である。
全てはそれぞれの徳いっぱいである。どんな立場の者であっても、徳を使い果たして、借金をするようになれば、自然ととられることとなる。反対に徳が付いてくれば、自然と与えられてくる。という話である。
「竜頭狂えば皆狂う」これもそうである。
上に立つものの判断はとても重要であり、それがちょっと狂うだけで、そのあとに続く者たち大勢を狂わすことになるのである。だから、上に立つものほど、狂わぬ判断が出来ねば、大罪を犯すことにもなる。と教えられる。
親神様が求められているのは、誠真実である。
その反対は、うそとついしょう、おべっかである。
先に、この新型コロナでの事を戦争に例えて、恨む人はないと書いたが、もし、収束してもこの原因について、うそなどを言い、人に責任を擦り付けるようなことがあれば、それこそ大変な事になるのではないかと心配をする。
どうぞ、親神様、大難を小難にお納めくださいませ。