あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

11月も終わりになり、日本の人々にも世界の変化が分かり始めて。。。

2023年11月30日 07時58分09秒 | 思った事

このブログに、今が戦争状態であると書いてから2~3年は経っただろうか。

ようやく、日本でもワクチンの事から、政治・医療・医薬・情報・金融などの異常さに気づく人々が増えて来たように思う。

これまで信じて来たことが、ことごとくウソによって固められて、信じ込まされてきた事であったと。

 

そうした中に、一番の感心ごとは、ワクチン接種をして「自分の体が今後どのようになるのか」と、不安になる方たちが多いのではないかという事である。

 

新型コロナが蔓延していると不安をあおられて、言われるがままに、それから逃れるためにと接種したもので、これまた不安になっているのである。

 

天理教を信仰している人々の中にも、多くの人々が接種して、このように思っている人も多いだろう。

 

常に書いているが、この身体は親神様からのかりものである。

心ひとつでどうにでもなる。

だから、心を親神様の思いに沿うように変えることが重要である。

 

身体は親神様に任せて、自分の心をどのように働かせるか。

自分の心を働かせて、自分の借りている体をどのように使うか。

これが重要なのである。

 

青年会が「心を澄ます事からはじめよう」と提唱しているが、これが出来れば、何の不安もない。

 

ところが、そうはいかない人々が多くて、様々な問題を引き起こしている。

 

自分の周囲に起こる事は、それぞれの心が成人するための、学びの材料である。

これがいんねんという言葉で表されている。

 

前生、前々生からの持ち越されたいんねん。

これから先へつながるためのいんねん。

 

人間は自分の思い通りにならず、苦しみを感じないと、「なぜだろうか」と思案しない。

思い通りになっていると、それが当然で、感謝の心も失われてしまうのである。

 

思い通りにならなくなった時、その責任を他人に添加して、「あの人のためにこうなった」「あの人がこうしなかったからこうなった」という人々が多い。

天理教を信仰していると自負する人々の中にも、こう成ったのは「本部のせい」「教会のせい」「会長のせい」「親のせい」などと言う人々が結構ある。

これも同じ事である。

 

「すべては、それぞれの心次第」と教えられているのにである。

 

自分を正当化するために、教えを曲げて来た人々もある。

政治や周囲の力に負けて、かしものかりものを得心せずに。。

これは親神様からしたら全くのざんねんである。

 

教祖のひながたから考えたら良く分かるだろう。

人を助けても、いらぬ罪状を掛けられて監獄へとご苦労された事が一番良く分かる事だろう。

 

そうした中に、「法には逆らえません」と申し出たのが人間であり、その人間の心に合わせて、「あしきをはろうて」と心の悪しきを払う事が先とされた道へと変えておられるのであろう。

 

歴史の時間軸からすると、「あしきはらい」から「あしきをはろうて」と地歌を変えられた、甘露台の石の没収が行われたのは、教祖の最後のご苦労の前であるが、その時にはすでに、最後のご苦労の時の人々の心も見定めて、模様替えをした後の道を年数を掛けて準備されて、真柱様との問答になってきたように思える。

そしてその後、「真実の道」と「応法の道」の両方でこの世界を導かれてきたように思える。

本席様のおさしづによる導きを考えた時、「悪をはびこらす」という言葉がとても気になる。

 

おさしづの時代になって、様々な事情が起きる。

多くの人々が、弾圧の中で苦労をされて歩んできた。

その歴史も刻まれている。

その結果も「一代より二代」と示されているように、それぞれの子孫の状態で分かる事だろう。

 

「教えが神やで」と言われていながら、自ら教えを求めずにいるために、先が分からない人々も多くある事だろう。

 

「人に分かるように」と言いながら、教えを変えている事もある事に気がつかねばならない。

 

早く良くなりたい、早く学びたいとして、ポイントだけを教えて欲しいと思う心も、教えを変えている原因とも考えられる。

 

私自身は疑い深い人間である。

だから、元となる資料に目を通したい。そこから学びたいと思って今日まで来た。

 

今、「復元33号」を書き換えしながら、ようやくこれが読めるようになったと思うと共に、教祖伝では「貧に落ちきられた」と簡単に話された、教祖の通られた25年の最初のひながたの重要性を感じている。

 

「やまさかやいばらぐろもがけみちも つるぎのなかも」と、簡単には陽気ぐらしにはなれない事を、おふでさきに記されている事を忘れてはならない。

教祖でさえ50年の道を通られて、その姿は見えなかったのだから、一代で見ようと思う事が大きな間違いの元とも思える。

 

さらには、おふでさき号外に、

にち/\に心つくしたものだねを
神がたしかにうけとりている (G-1)

しんぢつに神のうけとるものだねわ
いつになりてもくさるめわなし (G-2)

たん/\とこのものだねがはへたなら
これまつだいのこふきなるそや (G-3)

 

と示されている。

蒔いた物種。これは良い物種もあれば、悪い物種もある。

この事をしっかりと心して、それが生えてくる姿を見極める事。

それをしなければ、「こうき」は分からないのであろう。

 

「こうき」が分からねば、それを広める事はできずに、陽気ぐらしへの歩みは進められない事となる。

「善悪共に見分けする」というお言葉からもわかるだろう。

 

親神様の教えを知らない人々は、科学や医学やとして、右往左往するのである。

親神様の教えを知り、教えを求めるならば、心ひとつを問題として、それを乗り越えて行く事が、今の時旬重要な事ではないかとも思える。

 

何のためにぢばを定めて、動かぬ所へ神名を授けたのか!

それまでの神社仏閣では、功績のあった人間に神名を授けて来たのに。。

と考える事も必要であろう。

 

おもうがままに。

今日も一日よろしくお願いします。

コメント
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