先日、10月29日に「ようぼく一斉活動日」が行われ、私の会場では「今後どのような講師、内容の話が聞きたいか?」というアンケートを取った。
120人出席中、38人がアンケートに記入してお帰り下さった。
その内、半分以上が、今回の講演内容についての感想を書いて下さり、
3分の1ほどが、今後の事について書いてあった。
その中に、「神様があるのならば、どうして戦争が起きるのか!」と問われたものがあった。
まだまだこのように考えられる方があるのだと思った。
この考えが、戦争を作り上げる元になっている事に気がついていない。とも思った。
戦争と、家族や隣人との争いも、商売での争いも、元の心は同じである。
その事に気がつけば変わるだろう。
何のために、十柱の神様のお働きを示し、八つのほこりの説き分けを示して、それぞれの心の善悪を分ける方法を教えて下さったのか。
むほんの根を切る為である。
教祖140年祭に向けて、ひながたをたどろうと言われているが、ひながたをたどるにしても、そのひながたを知らねばならない。
それぞれに、そのひながたを求めているだろうか?
それがとても気になる。
「稿本天理教教祖伝」をどこまで理解できているだろうか?とも思える。
そうした事を求める事も、ひながたをたどる一つだと思うのである。
教祖の通られた道には、順序がある。
また、教祖だけではない、その周囲の人々の行いが、親神様から私たちへのメッセージであり、それがそれぞれにも起きているのである。
このように考えれば、それぞれの生活の上に、教祖が歩まれたひながたが生きてくるはずである。
教祖の逸話の中に、人から質問をされて分からない事があれば、親神様にたずねるとして、寝床を引き横になられたというものがある。
これと重なるのが、おたすけ先に言って、尋ねられたことに返答が出来ずに、すぐさまお屋敷に帰り、教祖に伺った先人の話である。
「教えが神」とも言われる。
アンケートの中には、「おたすけに役立つ理の話が聞きたい」というものもあった。
人を助けたいとおたすけに掛かれば、どうしたら良いかと疑問も多分に沸くものである。
先の教祖と先人の逸話同様に。
そうした時にこそ、教えを求める必要があろう。
海外から喜多方に、うちの教会の事、私の事を話す機会を頂き、その時に、八つのほこりについて、「同じほこりの言葉であっても、良いものもあり、悪いものもある。その見分けをするための話が、八つのほこりです。」と話したところ、その通訳さんの顔いろが変わった。
今まで考えた事が無かったという顔をして、心が晴れたような顔をされた。
こうした事を話し始めて20年余りになるが、まだまだ、こうした事も教内には浸透していないと思った。
八つのほこりの説き分けの説き分け以上に、その前置きが重要なのであるのに、それに気がついていないだけで、これに気がつけば、物事の見方がかわるはず。。
とも思えるが、裏を返せば、同じ事を聞いても聞きいれる事が出来る人と、出来ない人がある事を考える時、その人次第ともいえる。
そして、そうした事に気がつく人が増える事が、人間全体の成人といえるだろう。
今世界で起きている事。
これについての様々な人々の考えを、SNSを見ていると感じ取れる。
上記と同じようなものである。
ただ単に、身上のご守護だけを求める人々。
その元になる心を変えることに思いを寄せている人々。
この差と同じような事が、世界でも起きている。
内も世界も同じ事である。
こうした事を親神様はご覧になられて、必要な人々に、必要な事情を与え、また、大難は小難にと守りながら、人間の成人を手助けされていると思う。
旬旬に応じて、「刻限」がまさにそうした時を示すものであり、そうした時旬がある証拠だと思っている。
先ごろより、「復元33号」『稿本 教祖様御伝」の文字化を始めている。
20年ほど前には読めなかったものが、読めることに驚いている。
これも、「山田伊八良文書」などの 写真版とそれを活字にされた書物を読んだり、正文遺韻などを書換えた賜物と思っている。
思うがままに。。
皆さまに親神様・教祖の結構なるお導きがありますように。。。