あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

無事に12月、本年納めの月次祭を終える事が出来ました。。。心定めについて。。。

2020年12月13日 22時04分45秒 | 思った事

昨日は、12月の月次祭を無事につとめる事が出来た。

このコロナ禍なので、皆でマスクを付けておつとめをつとめた。

先月から、駐車場の関係から、開扉の時間を1時間遅らせて、11時半よりにした。

そのお陰で、来てくださる信者さんをゆっくりと待たせてもらう事が出来た。

 

おつとめの人数は、昔に比べると少なくなった。

けれども、皆さんは一生懸命に勤めて下さる。

本当にありがたい、真実の心だと思っている。

 

教祖の時代、ご本席様が信仰につかれて、つとめ場所の建前の時に、大和神社の事件が起こり、人々は怖がって、ご本席様夫妻しかお屋敷に来る人はいなくなった。

この時に、こかん様が「行かなければよかったのに」と言われた言葉に「不足するのやない。後々の話の種であるほどに」とお話下された。

このつとめ場所を立てる発端となったのは、本席様の奥様の身上御守護頂いたお礼に「社なりとも献納したい」と申し上げた言葉から始まったのである。そして、信者それぞれに、私は畳、私は瓦をなどと言う中に、本席様は「手間を引き受けます」と、それぞれが心定めて取り掛かったものである。

この事件があっても、その定めた通りに勤めきったのが、本席様夫妻であった。

その後、また段々と身上や事情を助かった人々が集うようになるのだが、このご本席様夫妻のお心と行いは、親神様のお喜び下さるところだった。

また、

教祖が現身を隠される時には、多くの人が参拝に来るようになっていた。それも遠くの地からも。

そうした中、警察からの弾圧で、教祖は何度も投獄されて、おつとめを勤める人々はそれを恐れて、親神様の望まれる「おつとめ」を行おうとしなかった。

けれども、参拝に来る人々は、助かってありがたいと、その一心でお屋敷に詰めかける。そのように、詰めかけられるとまた警察からの弾圧がかかるのである。

この板挟みで、教祖に近い人々は苦悩をしたのである。

そして、いざ現身を隠される直前。

「心定めの人衆さだめ、事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。」と言われるのである。

そして、「命捨てでもと思うものだけおつとめにかかれ」との真柱様の声の元、陰暦正月26日のおつとめは勤められるのある。

さらには、この警察からの弾圧も、親神様からは「神が連れて出るのや」と言われて、教祖はいそいそと投獄されていったのである。

人間からは不都合と思われることも、親神様からすれば、意味があるのである。

その意味を人間は理解できない。

その意味の一つは、心定める事だと思うのである。

 

「定まってからするのやない。定めてからするのや」という言葉を先人の先生から聞いたことがある。

出来るようなったらやります。ではなく、出来るようにします。という定めが大切なのではないかと思う。

そして、定めた事を忘れない事。事あるごとに思い返すことが大切だと思う。

 

「定める」と言っても、定める内容に迷う事が多々あるものである。

おさづけを頂戴する時のお話には、おさづけを取り次ぐ時には、お話を聞いて心を定める事が大切と説かれる。そして、定めても御守護の兆しが見えない時には、親神様の思いに沿っていないので、改めてねりあい、心を定めなおす事と言われるのである。

親神様の思いに沿わない「定め」ではならないのである。

 

こうした繰り返しが、親神様との対話であり、神と共に味わう陽気ぐらしだと思う。

 

親神様・教祖、大難は小難にとお守りください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする