昨日は、12月の月次祭を無事につとめる事が出来た。
このコロナ禍なので、皆でマスクを付けておつとめをつとめた。
先月から、駐車場の関係から、開扉の時間を1時間遅らせて、11時半よりにした。
そのお陰で、来てくださる信者さんをゆっくりと待たせてもらう事が出来た。
おつとめの人数は、昔に比べると少なくなった。
けれども、皆さんは一生懸命に勤めて下さる。
本当にありがたい、真実の心だと思っている。
教祖の時代、ご本席様が信仰につかれて、つとめ場所の建前の時に、大和神社の事件が起こり、人々は怖がって、ご本席様夫妻しかお屋敷に来る人はいなくなった。
この時に、こかん様が「行かなければよかったのに」と言われた言葉に「不足するのやない。後々の話の種であるほどに」とお話下された。
このつとめ場所を立てる発端となったのは、本席様の奥様の身上御守護頂いたお礼に「社なりとも献納したい」と申し上げた言葉から始まったのである。そして、信者それぞれに、私は畳、私は瓦をなどと言う中に、本席様は「手間を引き受けます」と、それぞれが心定めて取り掛かったものである。
この事件があっても、その定めた通りに勤めきったのが、本席様夫妻であった。
その後、また段々と身上や事情を助かった人々が集うようになるのだが、このご本席様夫妻のお心と行いは、親神様のお喜び下さるところだった。
また、
教祖が現身を隠される時には、多くの人が参拝に来るようになっていた。それも遠くの地からも。
そうした中、警察からの弾圧で、教祖は何度も投獄されて、おつとめを勤める人々はそれを恐れて、親神様の望まれる「おつとめ」を行おうとしなかった。
けれども、参拝に来る人々は、助かってありがたいと、その一心でお屋敷に詰めかける。そのように、詰めかけられるとまた警察からの弾圧がかかるのである。
この板挟みで、教祖に近い人々は苦悩をしたのである。
そして、いざ現身を隠される直前。
「心定めの人衆さだめ、事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。」と言われるのである。
そして、「命捨てでもと思うものだけおつとめにかかれ」との真柱様の声の元、陰暦正月26日のおつとめは勤められるのある。
さらには、この警察からの弾圧も、親神様からは「神が連れて出るのや」と言われて、教祖はいそいそと投獄されていったのである。
人間からは不都合と思われることも、親神様からすれば、意味があるのである。
その意味を人間は理解できない。
その意味の一つは、心定める事だと思うのである。
「定まってからするのやない。定めてからするのや」という言葉を先人の先生から聞いたことがある。
出来るようなったらやります。ではなく、出来るようにします。という定めが大切なのではないかと思う。
そして、定めた事を忘れない事。事あるごとに思い返すことが大切だと思う。
「定める」と言っても、定める内容に迷う事が多々あるものである。
おさづけを頂戴する時のお話には、おさづけを取り次ぐ時には、お話を聞いて心を定める事が大切と説かれる。そして、定めても御守護の兆しが見えない時には、親神様の思いに沿っていないので、改めてねりあい、心を定めなおす事と言われるのである。
親神様の思いに沿わない「定め」ではならないのである。
こうした繰り返しが、親神様との対話であり、神と共に味わう陽気ぐらしだと思う。
親神様・教祖、大難は小難にとお守りください。