人間はこの地球に生きている。
この地球を離れたら、一時でも生きて聞くことは出来ない。(機械によって地球と同じ環境を作ってという意味ではない。)
たとえば、
この大地に立っていられるのは、引力という、地球の摂理によるものである。
また、空気があり、暖かさと冷たさの差があるから風が起こる。
もし、太陽の温みがなくなれば、凍り付いてしまう。ほどほどにあるから、生きていけるのである。
こうした作用は、地球上に自然と行われることで、あって当然として暮らしている。
そして、引力・引っ張られる力というものが、我々人間が生活する上にどれだけ重要なもので、このような働きが神様であるのだた、
神の働きだと思わずに、「神はない」と思っている人がほとんどだと思う。
また、「神はある」と思う人でも、人知を超えた現象ばかりを神の姿と考えている人がほとんどだと思う。
教祖は、かしもの・かりものの話で、この事を教えられた。
すべては神様からの借り物で、その中に私たちは生かされている。
自分たちのものは、この心ひとつだけであると。。。
これを教えるために、人知を超えた不思議を見せられたのだが、そこで止まっているのが、今の人間である。
タイトルに理という言葉を書いた。
理というのは、ことわりとも読む。
「うそと追従これ嫌い」と教えられたのも、一つの理である。
人は、動物のように、ただただ飲み食いだけをして生きていくのではない。
知恵を使い、共々に生活をして行くのである。その中で、心の使い方も教えられているのである。
そこは、神様の言葉を信じて、行いうと共に、行わない人とを見比べて知っていくことが大切だと思う。
「うそをついたらその者がうそになるのがごれがしょうちか」とも教えられる。
うそをついたら、そのうそを正当化するために、さらにうそを重ねる事となる。
そして、一つのほころびから、ウソがばれると、本当の事までもうそに受け取られてしまうのである。
この事は、神の言葉を信じない人でも、誰にでも分かる事だと思う。
神様は気が長い、多少のウソでも、間違いを正してくれるのではないか。と、最初は見逃してくれる。
けれども、神様が見ていると思わぬ者は、得意になってうそを重ねて、人をだまして、人を悲しませて、自分ばかり良いめを見ようとする。
すると、そのだまされた人々、悲しませた人々の思いは、何倍、何十倍にもなる。
特に、正直を、誠を好む人は、そうしたうそに、騙されやすい。そして、騙されたと気が付いた時には、恨む気持ちが何十倍にもなるのである。
誰にも間違いはある。それを正直に誤り、正していけば、攻める人もあるだろうが、助ける人も多々あるのが人間である。
ところが、こうした正直な心を利用して、心にもない言葉を使い、行いをする事が、これまたうそとなるのである。
そして、つじつまが合わなくなり、いつかはばれる。周囲の人から疎外されるようになる。
これは、自業自得というものであり、その償いはしなければならない。
これも 理である。
神様は、人の心に入り込むのである。
人は、ふと、思いもよらない言葉を出すことがある。
日頃はこんな事考えないのに、という事をふと言ったり思ったりするものである。
こうした事を、よく悟った。とかひらめいた。などと言う。
こうしたひらめきや、悟りで、人間の文明は発達したはずである。
「身の内離れて神は無し」とも「人は神やで」と言われる。
この体が動くのも、自然の理が、バランスよく働くから動くのであるが、
それだけではなく、先に言った、神が入り込み、思い浮かばせてくれる事を思うと、その通りだと思えるはずである。
他人の言葉を神の言葉と受け取り、自らの行い、心を反省する事。こうした事がとても大切である。
この事が、多くの人に出来るようになれば、自然と平和な、楽しい世界が出来るはずである。
そのようにさせたい。そのように人間を育てたいというのが、親神様の思いである。
この元の思いの上に、様々な教えが出来ている。
教えられて来たのである。
人間は生まれかわり出変わりしている。これを信じるための証拠も出してあると言われる。
これを理解できるかできないか。
この点が、とても気になるところである。