日本の神道と原子力発電
わざわざ低地に削って建てていた福島原発事故
今回の震災に伴う福島第一原子力発電所の被災、これは我々にとって大きな教訓であった。
去る5月5日、東京新聞には海抜10メートルの位置にたつこの原子力発電所の敷地は、かつて発電所ができるまでは海抜35メートルの丘陵地であったことを報道した(しかし、この報道は重要な内容を持っているのだが、なぜかそのあと、新聞マスコミが扱わなくなった。何らかの話し合いがあり、故意に消されたと思われる)。旧陸軍の飛行場であったここに40年前に発電所を設けるときに、海から資材を搬入するためや、海水を取り入れやすくするために、わざわざ25メートルも丘陵地を削って発電所を建設した。これには当時の地震学の研究結果、「ここには5メートル以上の津波は来ない」というデータがあったとされている。
考えてみれば、こんな切り取り工事をしなかったならば、地盤にいくらか問題があったのなら、施設の一部は地下室にでもして高度を維持してあれば、今回の津波による大事故は起こらなかった。これは明らかに今回の事故が、人間の知恵の浅はかさに基づく人災であったことを証明している。
津波が発電所の機能を破壊して以来、国がいままで宣伝していた「原子力発電所は安全だ」という宣伝が、事実に反したものであることが次々に明らかになった。政府や東電の説明は、日を追うにつれて事故そのものが深刻なものであることを小出しに明らかにし、いまでは広い周辺を含めて、人の住めない土地になりそうな気配である。情報を小出しにする原因はどこにあるか。それは当事者の事故の復旧より、大事故を起こしたとして責任追及を恐れる意識が強いからだろう。このため、「最悪の事態を想定して万全を尽くす」という復旧の基本精神は消されてしまう。
将来起こりうる事態に関して、あらかじめ考慮しようとしても、それを充分に検討できる能力は今の段階では不足している。不足しているのにもかかわらずそれを過信してしまい、それを確実なものと思い込んでしまう傲慢さ、それはこの世を支配するのは人間であると思い込む近代思想が影響していると思う。だが我々日本人は、少なくとも近代までは、この種の発想とは異質な思考の中に生活を続けてきていた。それを思い返してみる価値があるのではなかろうか。
原子力発電所は日本の伝統文明思想に合わない
原子力発電に関しては存続、廃止それぞれに、様々な方向から意見が述べられていて、かまびすしい状況になっている。それらは経済性を巡ってのもの、政治的なもの、物理や化学に基づくものなどいろいろあるが、私は経済学者でも政治家でもないし科学者でもない。しかも特定の政治的イデオロギーに縛られたくない。ただ日本の伝統を大切なものと思い、その日本の育んできたものの考え方が、いま、様々な方向で行き詰まりを迎えたと言われる現代文明の将来を切り開くカギがあると確信している。
私は日本の昔ながらのものの感じ方、考え方を大切にする日本固有の信仰・神道を大切に生きる一人である。そして原子力発電というものには、神道の立場から大きな疑問を感じている。
それは原子力の利用がいままで人間が行ってきた資源利用の中で特別の存在であることによる。核燃料からエネルギーを取り出した後に、使用済みの燃料は自然界に存在しない危険な物質に変化する。それを容易に以前の状態に戻せない状態になる。そのため使用済みの燃料などは漏れ出したり放射能を拡散したりしないように厳重に密封して地球のどこかに封じ込めておく必要がある。
人間は今までも木を燃やし、化石燃料を焚いてそこから膨大なエネルギーを取り出してそれを生活に利用してきた。これらの燃焼は、炭酸ガスを出すが、炭酸ガスは森林の木や草などにより再び循環してもう一度燃料にできる。自然は見事に循環していた。人間は多くの植物や動物を食用にし、また衣服や住居などにも使用して、自然の大きな破壊者だが、それらもいずれは自然に戻る。だが、原子力の利用はこんな循環のサイクルを破壊してしまう。
我々の祖先は、自然の草木や山や石、水などにも神が宿ると信じ、それらの本来の機能を破壊することなく、そんな自然とも一定の調和を保ち、そのバランスに逆らうことなく人間も生きていくべきだと信じていままで生きてきた。人間だってそんな大きな自然体系の中の一つである。それと調和をすることにより、そんな条件をはっきりと認めたうえで、あとから生まれてくる子孫のために、良き環境を継承し、できることなら「子孫に美田を残す」という言葉があるように、より人間にとって住みやすい環境を残す。これは絶対的な条件だった。
自然のリサイクルの中に生きるのが神道の精神
こんな信仰・神道的な日本人の感性、この世界は人間だけが勝手に生きてよいものではないという我々の神道から言うと、原子力発電所は、日本人の作ってよいものといえないと私は思う。自然との調和の信仰から見ても、現在の原子力発電の廃棄物は、地球の環境を破壊し、人間が現段階では自然に対して、再び使用前の条件に戻すことのできない永久の汚染を残すことになる。しかも今回の原発事故のように、原子炉を使用中に事故を起こせば、無限に近い生物に有害な放射能をまき散らし、大きな被害をまき散らし、美しい国土を人間の住めない地域に変えるし、放射能は生物の遺伝因子までを破壊して、想像もできない自然の破壊を進めることになる。
放射能漏えい事故は現段階では我々がいかに万全の備えをしていると思っていても、どこで発生するかわからない。原発に、あのニューヨークのテロ事件のように、故意であるか偶然であるかは別にして、飛行機やミサイル、爆弾、隕石などが落ちてきて、大きな事故が起こることだって、絶対にないとは言えないことなのだ。
またこの危険は使用済み燃料に関しても言えることだ。子孫のために我々が残すべきものは、美田であって永久の「マガツヒ=けがれ」である汚染物質ではない。
少なくとも無害なサイクルが開発されるまでは
私はこんな理由から、日本は現段階では、原発を、しっかり使用済み燃料の自然界への還元の技術が完成し、あるいはどんな事故や犯罪、ミスが起こっても、悪魔の放射能が外に出ず、有害な使用済み核燃料が排出されなくなるまでは、我々が使ってはならないものであることを強く主張すべきであると考える。
「核燃料を使うことがなければ、我々はどんなに他に道を求めても、エネルギー需要に応じきれない」。
という意見は当然出てくるであろう。
だが、自然の摂理から考えれば、できなければ使わずに生きていく道を必死で考えるべきだと思うことにして、万難を排して努力すればよいことである。無いものねだりをして先祖から守り続けてきた自然に対する調和の心を失ってはならない。
浦安の国土をいつまでも保全するために
原子力を、私はいま、ここで完全に否定しろとまで主張しようとは思わない。放射線があるからこそ、治る病気があることも知っている。将来原子力の及ぼす害を抑えて、安全なリサイクルができるようにするために実験を続けるための研究にまで、それを使ってはならないとまで、強弁しようとも思わない。本来はそこまで主張をしなければ論争の論理が完結しないと私を批判する人も出てくるだろう。だが、私は論争のために原発に反対しているのではない。我々が暮らしているこの世界には、我々以外に多くのものがあり、その恩恵によって我々は暮らしている。人間だけが生きていかれれば、世界がどんなことになってもよいと思っていないだけなのかもしれない。
自然界の万物に対してその存在の陰にはすべて霊性があることを感じ、万物により生かされている己に感謝して生きていこうとする神道の信仰。それはこれから我々が生きていく上の大切な指針であると思っている。
付録 核に対する最初の宣言は終戦の詔勅であった。
終戦のご詔勅
ここで核の問題に関して、一つ覚えておいていただきたいことがある。それは日本人の核兵器反対の声は、昭和天皇のお言葉に始まるという史実である。
いまから65年ほどさかのぼる昭和20(1945)年、日本は当時、アメリカ、イギリスなどと戦争をしていたが、開戦当時は戦局が有利だったのだが、国内資源に乏しい我が国は戦争が長引くにつれて武器・弾薬・燃料などの不足によって追い込まれ、だんだん追い込まれる状況にあった。起死回生を狙って軍部は新型爆弾(原子爆弾)の開発の研究をしていたが、それが昭和天皇のお耳に入ると、天皇は、それを人類破滅への悪魔の兵器だとして厳しくいさめられ、研究中止を命じられた(これは私が勤めていた週刊新聞社の政教研究室で、先の大戦の終戦始末を調べているときに、先輩記者が戦時中の主要閣僚から聞き、少ない資料を調査中と話してくれた話である)。
しかしその頃から米軍による本土空襲は厳しくなり、日本の都市は軒並み彼らに焼きつくされ、やがて広島・長崎に米軍により原子爆弾が落とされた。この情報に接された昭和天皇は、将来を決しかねて紛糾している時の内閣に、米英など連合国が日本に対して出した終戦の条件・ポツダム宣言を呑んで降伏するとの決裁を示された。そして日本は8月15日、天皇ご自身がラジオで「終戦のご詔勅」を発表され、全国民に耐えがたいことであろうが、ただちに戦闘行為を中止して祖国復興に力を入れるように諭された。ここに終戦の詔勅の核兵器に関する部分を紹介する。
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚 交戦ヲ継続セムカ 終ニ我々民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ 是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
(昭和20年8月15日、終戦の直後より)
(訳=敵は新たに残虐な爆弾を使用して、たびたび罪のない人々を殺傷し、惨害の及ぶところは測るべからざるにいたった。それでもなお交戦を続ければ、ついには民族の滅亡を招くのみならず、ひいては人類の文明をも破却してしまうだろう。そうなれば私は何といって一億の国民を引き受け、皇祖皇宗の神霊にお詫びして良いか。これが私の帝国政府に対して、共同宣言に応ずるように命じた理由である)
昭和天皇は一億国民の祭り主のお立場で、日本の皇祖皇宗の神霊に対して、核兵器に対してその使用は人類文明を破壊し、人類を滅亡させると厳しく批判をされた。世界最初の核兵器使用への反対の宣言である。
昭和天皇は放射能のもたらす残虐性を鋭く判断されて、たとえ国家の浮沈を決する厳しい事態の下であっても、国民にこの種の害をもたらしては祖先や神々に対して、祀り主としてわびる言葉がないとお考えになられた。日本人はこの陛下の厳しい核に対する姿勢を忘れてはならない。
人類文明が破却される
昭和天皇がこの詔勅を発せられた当時、核兵器のもたらす罪過、原子力というものに対して、どこまでの知識を持たれていたのか、それは分からない。しかしその後に放射能の人類に及ぼす影響については多くの事実が明らかにされ、直感的に陛下が「神々にわびる言葉も見当たらぬ残虐なもの」であることが証明された。またさらに、少なくとも現在の人類の科学知識の水準においては、たとえ原子力が直接兵器としてではなく、いわゆる「平和利用」と言われる核物質の持つエネルギー供給の利用という分野においても、みだりに利用するのは自然のリサイクルにおいても未解決な問題があり、躊躇せざるを得ないものであることが明らかになった。
参考にお示しする次第である。
わざわざ低地に削って建てていた福島原発事故
今回の震災に伴う福島第一原子力発電所の被災、これは我々にとって大きな教訓であった。
去る5月5日、東京新聞には海抜10メートルの位置にたつこの原子力発電所の敷地は、かつて発電所ができるまでは海抜35メートルの丘陵地であったことを報道した(しかし、この報道は重要な内容を持っているのだが、なぜかそのあと、新聞マスコミが扱わなくなった。何らかの話し合いがあり、故意に消されたと思われる)。旧陸軍の飛行場であったここに40年前に発電所を設けるときに、海から資材を搬入するためや、海水を取り入れやすくするために、わざわざ25メートルも丘陵地を削って発電所を建設した。これには当時の地震学の研究結果、「ここには5メートル以上の津波は来ない」というデータがあったとされている。
考えてみれば、こんな切り取り工事をしなかったならば、地盤にいくらか問題があったのなら、施設の一部は地下室にでもして高度を維持してあれば、今回の津波による大事故は起こらなかった。これは明らかに今回の事故が、人間の知恵の浅はかさに基づく人災であったことを証明している。
津波が発電所の機能を破壊して以来、国がいままで宣伝していた「原子力発電所は安全だ」という宣伝が、事実に反したものであることが次々に明らかになった。政府や東電の説明は、日を追うにつれて事故そのものが深刻なものであることを小出しに明らかにし、いまでは広い周辺を含めて、人の住めない土地になりそうな気配である。情報を小出しにする原因はどこにあるか。それは当事者の事故の復旧より、大事故を起こしたとして責任追及を恐れる意識が強いからだろう。このため、「最悪の事態を想定して万全を尽くす」という復旧の基本精神は消されてしまう。
将来起こりうる事態に関して、あらかじめ考慮しようとしても、それを充分に検討できる能力は今の段階では不足している。不足しているのにもかかわらずそれを過信してしまい、それを確実なものと思い込んでしまう傲慢さ、それはこの世を支配するのは人間であると思い込む近代思想が影響していると思う。だが我々日本人は、少なくとも近代までは、この種の発想とは異質な思考の中に生活を続けてきていた。それを思い返してみる価値があるのではなかろうか。
原子力発電所は日本の伝統文明思想に合わない
原子力発電に関しては存続、廃止それぞれに、様々な方向から意見が述べられていて、かまびすしい状況になっている。それらは経済性を巡ってのもの、政治的なもの、物理や化学に基づくものなどいろいろあるが、私は経済学者でも政治家でもないし科学者でもない。しかも特定の政治的イデオロギーに縛られたくない。ただ日本の伝統を大切なものと思い、その日本の育んできたものの考え方が、いま、様々な方向で行き詰まりを迎えたと言われる現代文明の将来を切り開くカギがあると確信している。
私は日本の昔ながらのものの感じ方、考え方を大切にする日本固有の信仰・神道を大切に生きる一人である。そして原子力発電というものには、神道の立場から大きな疑問を感じている。
それは原子力の利用がいままで人間が行ってきた資源利用の中で特別の存在であることによる。核燃料からエネルギーを取り出した後に、使用済みの燃料は自然界に存在しない危険な物質に変化する。それを容易に以前の状態に戻せない状態になる。そのため使用済みの燃料などは漏れ出したり放射能を拡散したりしないように厳重に密封して地球のどこかに封じ込めておく必要がある。
人間は今までも木を燃やし、化石燃料を焚いてそこから膨大なエネルギーを取り出してそれを生活に利用してきた。これらの燃焼は、炭酸ガスを出すが、炭酸ガスは森林の木や草などにより再び循環してもう一度燃料にできる。自然は見事に循環していた。人間は多くの植物や動物を食用にし、また衣服や住居などにも使用して、自然の大きな破壊者だが、それらもいずれは自然に戻る。だが、原子力の利用はこんな循環のサイクルを破壊してしまう。
我々の祖先は、自然の草木や山や石、水などにも神が宿ると信じ、それらの本来の機能を破壊することなく、そんな自然とも一定の調和を保ち、そのバランスに逆らうことなく人間も生きていくべきだと信じていままで生きてきた。人間だってそんな大きな自然体系の中の一つである。それと調和をすることにより、そんな条件をはっきりと認めたうえで、あとから生まれてくる子孫のために、良き環境を継承し、できることなら「子孫に美田を残す」という言葉があるように、より人間にとって住みやすい環境を残す。これは絶対的な条件だった。
自然のリサイクルの中に生きるのが神道の精神
こんな信仰・神道的な日本人の感性、この世界は人間だけが勝手に生きてよいものではないという我々の神道から言うと、原子力発電所は、日本人の作ってよいものといえないと私は思う。自然との調和の信仰から見ても、現在の原子力発電の廃棄物は、地球の環境を破壊し、人間が現段階では自然に対して、再び使用前の条件に戻すことのできない永久の汚染を残すことになる。しかも今回の原発事故のように、原子炉を使用中に事故を起こせば、無限に近い生物に有害な放射能をまき散らし、大きな被害をまき散らし、美しい国土を人間の住めない地域に変えるし、放射能は生物の遺伝因子までを破壊して、想像もできない自然の破壊を進めることになる。
放射能漏えい事故は現段階では我々がいかに万全の備えをしていると思っていても、どこで発生するかわからない。原発に、あのニューヨークのテロ事件のように、故意であるか偶然であるかは別にして、飛行機やミサイル、爆弾、隕石などが落ちてきて、大きな事故が起こることだって、絶対にないとは言えないことなのだ。
またこの危険は使用済み燃料に関しても言えることだ。子孫のために我々が残すべきものは、美田であって永久の「マガツヒ=けがれ」である汚染物質ではない。
少なくとも無害なサイクルが開発されるまでは
私はこんな理由から、日本は現段階では、原発を、しっかり使用済み燃料の自然界への還元の技術が完成し、あるいはどんな事故や犯罪、ミスが起こっても、悪魔の放射能が外に出ず、有害な使用済み核燃料が排出されなくなるまでは、我々が使ってはならないものであることを強く主張すべきであると考える。
「核燃料を使うことがなければ、我々はどんなに他に道を求めても、エネルギー需要に応じきれない」。
という意見は当然出てくるであろう。
だが、自然の摂理から考えれば、できなければ使わずに生きていく道を必死で考えるべきだと思うことにして、万難を排して努力すればよいことである。無いものねだりをして先祖から守り続けてきた自然に対する調和の心を失ってはならない。
浦安の国土をいつまでも保全するために
原子力を、私はいま、ここで完全に否定しろとまで主張しようとは思わない。放射線があるからこそ、治る病気があることも知っている。将来原子力の及ぼす害を抑えて、安全なリサイクルができるようにするために実験を続けるための研究にまで、それを使ってはならないとまで、強弁しようとも思わない。本来はそこまで主張をしなければ論争の論理が完結しないと私を批判する人も出てくるだろう。だが、私は論争のために原発に反対しているのではない。我々が暮らしているこの世界には、我々以外に多くのものがあり、その恩恵によって我々は暮らしている。人間だけが生きていかれれば、世界がどんなことになってもよいと思っていないだけなのかもしれない。
自然界の万物に対してその存在の陰にはすべて霊性があることを感じ、万物により生かされている己に感謝して生きていこうとする神道の信仰。それはこれから我々が生きていく上の大切な指針であると思っている。
付録 核に対する最初の宣言は終戦の詔勅であった。
終戦のご詔勅
ここで核の問題に関して、一つ覚えておいていただきたいことがある。それは日本人の核兵器反対の声は、昭和天皇のお言葉に始まるという史実である。
いまから65年ほどさかのぼる昭和20(1945)年、日本は当時、アメリカ、イギリスなどと戦争をしていたが、開戦当時は戦局が有利だったのだが、国内資源に乏しい我が国は戦争が長引くにつれて武器・弾薬・燃料などの不足によって追い込まれ、だんだん追い込まれる状況にあった。起死回生を狙って軍部は新型爆弾(原子爆弾)の開発の研究をしていたが、それが昭和天皇のお耳に入ると、天皇は、それを人類破滅への悪魔の兵器だとして厳しくいさめられ、研究中止を命じられた(これは私が勤めていた週刊新聞社の政教研究室で、先の大戦の終戦始末を調べているときに、先輩記者が戦時中の主要閣僚から聞き、少ない資料を調査中と話してくれた話である)。
しかしその頃から米軍による本土空襲は厳しくなり、日本の都市は軒並み彼らに焼きつくされ、やがて広島・長崎に米軍により原子爆弾が落とされた。この情報に接された昭和天皇は、将来を決しかねて紛糾している時の内閣に、米英など連合国が日本に対して出した終戦の条件・ポツダム宣言を呑んで降伏するとの決裁を示された。そして日本は8月15日、天皇ご自身がラジオで「終戦のご詔勅」を発表され、全国民に耐えがたいことであろうが、ただちに戦闘行為を中止して祖国復興に力を入れるように諭された。ここに終戦の詔勅の核兵器に関する部分を紹介する。
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚 交戦ヲ継続セムカ 終ニ我々民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ 是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
(昭和20年8月15日、終戦の直後より)
(訳=敵は新たに残虐な爆弾を使用して、たびたび罪のない人々を殺傷し、惨害の及ぶところは測るべからざるにいたった。それでもなお交戦を続ければ、ついには民族の滅亡を招くのみならず、ひいては人類の文明をも破却してしまうだろう。そうなれば私は何といって一億の国民を引き受け、皇祖皇宗の神霊にお詫びして良いか。これが私の帝国政府に対して、共同宣言に応ずるように命じた理由である)
昭和天皇は一億国民の祭り主のお立場で、日本の皇祖皇宗の神霊に対して、核兵器に対してその使用は人類文明を破壊し、人類を滅亡させると厳しく批判をされた。世界最初の核兵器使用への反対の宣言である。
昭和天皇は放射能のもたらす残虐性を鋭く判断されて、たとえ国家の浮沈を決する厳しい事態の下であっても、国民にこの種の害をもたらしては祖先や神々に対して、祀り主としてわびる言葉がないとお考えになられた。日本人はこの陛下の厳しい核に対する姿勢を忘れてはならない。
人類文明が破却される
昭和天皇がこの詔勅を発せられた当時、核兵器のもたらす罪過、原子力というものに対して、どこまでの知識を持たれていたのか、それは分からない。しかしその後に放射能の人類に及ぼす影響については多くの事実が明らかにされ、直感的に陛下が「神々にわびる言葉も見当たらぬ残虐なもの」であることが証明された。またさらに、少なくとも現在の人類の科学知識の水準においては、たとえ原子力が直接兵器としてではなく、いわゆる「平和利用」と言われる核物質の持つエネルギー供給の利用という分野においても、みだりに利用するのは自然のリサイクルにおいても未解決な問題があり、躊躇せざるを得ないものであることが明らかになった。
参考にお示しする次第である。