葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

心の豊かさを求めたい

2011年05月30日 23時05分42秒 | 私の「時事評論」
 

 日常茶飯事の老人の事故死
 インターネットにパソコンをつなぐと、まずニュース、「夫は病死、妻は溺死」という大分県のニュース。宇佐市で、浴槽に落ちて死んだ老夫婦が発見された。下着姿の86歳になる夫と部屋着の85歳の妻。検視の結果、風呂に入ろうとして不整脈で倒れた夫を助けようとした妻が浴槽に倒れ、夫は発作で死亡、妻は浴槽に落ちて溺死したものと分かった。二人はともに足が悪く、高齢で介護が必要とされる状態だったが二人だけで暮らしていた。
 犯罪事件ではないが、この種の老人のニュースが最近は多い。孤独に一人暮らをしていて、食事が摂れず餓死をした、身体が動かぬばかりに死亡した、そんなケースにはもう、殆どの人が振り向きもしなくなった。

 日本をむしばむ大きな課題
 「またか」と思って見過ごそうとして、そんな自分がどこかおかしいのに気がついた。これはあってはならないことなのだ。だが見回せば、そんな危険な状態にいる人が急速に増えている。寂しい一人暮らしの老人も多い。最近は昔のように、地域でお互いを見守り合う気風も急速に消えている。こんな状態を考えないで、景気が少しばかり上に行った下降したと一喜一憂する空気、それこそが、日本がいま、病んでいる何よりの証拠なのではないか。
 いまの我が国は従来から社会を支えてきた家庭全員が同じ屋根の下に暮らす風習が崩壊し、隣近所が親しく接触し、互いに助け合いながら生きる協力意識も崩壊してしまった。そんな空気が満ち満ちていた日本なのに、それをことさら崩壊させるのが進歩であるように思う空気が、無理やり押し付けられ教育されてこんな国になってしまった。これに加えて人口構成が極端に高齢化し、従来の日本が経験したことのない大きな課題を抱えることになっている。
 
 日本を無理やり悪くした戦後の改革
 どうしてこんなことになったのか。その背後にあった環境から、冷静に眺めておさらいしてみる意味があるのではないか。
その傾向は日本が長い歴史で、未だ経験したことのない敗戦を経験した時から始まった。日本は外国に占領をされたことがない珍しい歴史を持つ国だった。周りを海で囲まれていたので異民族や外国に征服されることがなかったのだ。しかしその間も、海を越えての小人数の船を使っての往復はあり、それにより外国の進んだ文化が伝わっていて、外国の珍しい文化や渡来の品物に対しての憧れは国民に強く、「舶来」という言葉は「素晴らしい」と同義語のように使われていて、伝統的に舶来文化を尊重する気風は強かった。
そんな中で明治維新を迎えた。日本は、外国の植民地にされずに独立を維持するために、西欧の進んだ科学技術を進んで取り入れて、その力で外国に対抗しようと考えた。「和魂洋才」という外国文化取り入れの方針が取られ、言葉は盛んに用いられたが、政府をはじめ国自体に追いつこうとする西欧文化に憧れ、西欧礼賛の空気は強く、模倣する空気が濃厚だったので、日本にはいよいよ舶来礼賛ブームは強まっていた。
 日本の文化は地域共同体としてのつながりを個人に優先するものとして、個人より生活単位の家族を基本にして長い歴史を重ねてきていた。国中に地域統合の祭りをする神社があり、その頂点に皇室があり、国民は最終的には一つにまとまる結束をもった文化集団だった。そこに明治以来の国策で従来の文化とは異質の外来文化が急速に入ってきたのだ。そんな落ち着かない空気の中で、日本は初めて敗戦を経験した。
 日本を占領したアメリカは、西欧文明の脅威となりかねない日本の文化構造を根本から変革し、日本を西欧あとに従う従属した国にしようと強引に占領政治を行った。
経験的に敗戦というものの屈辱を知り、外国の占領がどんなものかを骨身にしみて知っている国ならば、占領されている間は「負けたのだから仕方がない」と我慢していても、ふたたび独立を回復すれば自国の文化を取り戻すことを知っている。だが日本は経験がなくそれができなかった。憲法を変えられ、教育では家族制度は封建的時代遅れだから捨て去って、子供は親から独立せよと教えられ、親孝行を古い概念だと捨てさせられ、地域社会とのつながりも切られた。地域を束ねていた神社への信仰まで干渉制約され、生まれたままの個人こそ何より尊いと教えられ、国を愛すること、皇室を尊崇することまでも個性の制約だと否定された。
 そんな洗脳教育が続けられ、そんな占領軍に媚びてついていった連中ばかりが占領軍に引き立てられて国や役所、教育機関、報道機関などの要職を占めた中、従順に従ってきてこんな日本が出来上がった。

 戦後の風潮は65年も続いた
 こんな空気は占領が解除されてのちも変わらなかった。日本人が敗戦した時のテクニックを知らなかったためだろう。あるいは舶来意識を持っているために、占領軍の意図を見抜けなかったのか。日本には何千年もかかって積み上げた伝統的な道徳基準があった。それは外来の儒教などの用語が使用されていたが、日本の文化が長い間に作り上げてきた独特のものだ。人間は個人個人で生きているものではない。先祖からいま生きている文化を継承し、それを自分の糧として生きている。親や祖父母の無限の愛情に包まれて大きくなったし、隣人たちの見守りの中に成長した。そのことをしっかり知って、お世話になった人たちへの敬意と愛情を持ち続けて生きなければならない。そんな協力し合う人が集まる組織が国であり、皆が集まる共同社会を見守るのが地域の鎮守さま、そしてそれらを積み重ねた頂点には皇室があるとの教えは西欧にはまねのできないものだったのに。
 この観念が徹底的に壊され、若い世代に全く教えられることが無くなってしまった。戦後の教育はまるで野獣のように奔放に育ち、過去の蓄積である恩義や同義などは否定して、個人の我儘な利益のみを追求する人間を育てることに力を入れた。
 そしてあれから65年が経過した。これだけの長期間、洗脳教育を続けられると国民のほとんどがこの種の洗脳教育のもとに育ったことになる。しかしそれは十らの日本人にしっかり定着していた価値観と全く反対のことを教える教育だったので、徹底するのに時間もかかったが、いまでは子供ばかりではなく、親や祖父母まで、みんなその教育で育った連中ばかりになったと言っても過言でない。
最近になり、教育の成果は如実に表れるようになってきた。おびただしい核家族化の現象はその教育の成果だろう。日本中に広がった団地といわれる小住宅は、全国の家の広さを半分に狭め、統計的には建物に占める便所と風呂場と台所などの僅かの時間しか使わぬ場所ばかりが飛躍的に増加して、庭も狭くなり家のウサギ小屋化を進めた。伝統的家族形態の破壊はすねをかじるだけかじられた末に老人から子供らが逃げて、老人だけが残る所帯を急増させ、老人医療費を増加させた。家庭への教育を受けていない親が自分の子を虐待して殺し、子供が親を殺すなどの家庭内の悲しい事件も増加した。子育てに常識のないモンスターペアレンツなどという新種族が生まれ、ニートなどという引きこもりの若者が生じ、子供は社会になじむ道を閉ざされた。公共機関の優先席は若者に占拠され、立ちすくむ老人の前で、禁止されているはずの携帯電話をいじくりまわす姿も増え、昔からのおなじみの店を捨てて、一円でも安い店に群がるような人ばかりの社会になって、犯罪の検挙率も低下した。
日本には日本の公共道徳があった。人間なら果たさねばならないルールがあった。それらが片端から否定され、おかしな社会になってしまった。

本当の穏やかな暮らしは
国民の生活水準を維持することは大切なことだと言われている。憲法にもその権利は認めてあるとかいって、それを何よりも大切にする主張はあちこちで繰り返されている。権利はみんなが主張しても、義務はだれも果たそうとしない。税金を増やすこと、実質所得が下がることなどには強い反発があるが、要求することだけはいくらでもする。
人間の生活にとって、経済的な指標だけが上がれば、それが幸せを生むのだろうか。誰もそんなことに気がつかない。生活が豊かか貧しいかということは、ただうんと食えてうんと糞をするだけでは決まらない。資源やエネルギーの無駄遣いをするだけでも決まらない。人々の暮らす心の豊かさと密接につながっているのではないだろうか。親も子も孫も明るい気持ちで暮らせる環境、隣人があったら明るく挨拶をする環境、困っているものがいたらだれもが助け合う環境、そんな心の豊かさがなければ、人は豊かな心では生きられないものである。このことをもう少し考えるときなのではないだろうか。
私たち老人は、夜などは鍵もかけずに安心して眠り、夜道でも不安な状況を感じたらどんな時でもそこにある知らない家にでも助けを求め、突然雨が降って困っているときには、見知らぬ家でも傘を貸してくれる、そんな時代を覚えている。街灯も今よりはるかに少なく、防犯ブザーもモニターカメラも携帯電話もない時代だったが、いまよりはるかに安全に毎日を過ごした思い出がある。そんな時代は今よりもはるかに心が豊かだったと思いだす。
幸いなことに最近、お互いにもう少し心を通わせ合いながら生きたらどうだろうと思う機運も高まっているように思う。東北の大震災も、不幸な出来事ではあったが、国民に、助け合うことの大切さを思い出させてくれた。こんな気持ちを大切に盛り上げていきたいものである。