美術館にアートを贈る会

アートが大好きな私たちは、
市民と美術館の新しい関係の構築をめざしています。

高橋信也氏 講演「都市とアートの新しい関係 (2)」 (要旨・後半)

2022-02-05 10:50:32 | Weblog

(高橋信也氏 講演「都市とアートの新しい関係 (2)」の後半です)

 ___________________________________

5 アート表現に関わる変化 
 (1990年代後半から2000年代前半)

 

  • オリジナリティへの問いかけ

カルチュラルスタディ(文化学習)とマルチカルチュラリズム(多文化主義)が言われ始めたときに、各国、各地域の文化表現におけるオリジナリティへの問いかけが生まれた。
「日本美術のオリジナリティって何?」という問いに対し、説得力のある形で応答したアーティストやその考え方が国際的に評価を受けている。

 

  • 村上隆

村上隆は「スーパーフラット」という考え方を提示。このスーパーフラットは、浮世絵のように色面線描で、アニメ、コミックと共通する絵画語法で、西洋絵画のパースペクティブというくびきから逃れたものである。

村上隆は、アートレビューで、世界に影響を与える美術関係者百人の中に、7年連続日本人で唯一選ばれ続けたというのは、画期的なことである。
それまで荒川修作も河原温も認められることはあってもアメリカ人アーティストとしてだが、村上さんは日本とアメリカ、日本とパリの立ち位置の真ん中にいて、パリにもニューヨークにも日本にもアトリエをもって制作をするという姿勢で臨んできている。

《This Merciless World》は平面にしか見えないが、日本画の技法を駆使している。デジタルのペラペラ感をわざと出しながら、その下地はおびただしい作業で埋め尽くされている作品である。

 

  • 会田誠

特に当時衝撃的だった作品は、1999年の《切腹女子高生》。ガングロ・茶髪・ミニスカートの女子高生が月岡芳年(1839-1892)の浮世絵のスタイルで、顔は自分のお気に入りのポルノ女優の顔を貼り付けて、集団自決しているという衝撃的な絵。これは大変な話題になった。

 

  • 山口晃

山口晃の《百貨店圖 日本橋三越》は、洛中洛外図の形で、都市の建物を捉えている。

 

  • 蜷川実花

《蜷川実花展─虚構と現実の間に─》色が氾濫しているように見えるが、あまり立体的な感じはしない。現実の花を、蜷川さんはとてもフィクショナリーに捉えて、自分の虚構の世界の中の花に置き換えて世界を構築している。

 

  • 奈良美智

奈良美智はドイツのケルンに長い間住んでいて、絵の描き方、収め方はとてもヨーロッパ的で、画像そのものは端正で静謐な画面でマットな色調で描かれている。
しばしば怖い目をした女の子が登場し、《The Little Judge》は、この女の子は大人が土足で自分の中にずかずか入ってくるのを怖がって身を固くして緊張してナイフを握っている。

色面と線描きの伝統が日本のオリジナリティだと認められている。

 

___________________________________

6 3.11とその後の表現—2010年代

 

  • 3.11

整理すると1990年前後、東西ドイツの壁の崩壊、ソビエト崩壊など世界的な変革のなかで、海外の美術館は猛烈な勢いで自己改造し、アートの世界のコンテクストが哲学のムーブメントと相まって大きく変化したといえるだろう。しかもインターネットの通信手段が加わったことで、さらに加速した結果、全世界的に社会とアートの関係が変化した。
その結果、日本各地でさまざまな屋外を含むアートイベントが行われているという背景の中で、3.11東日本大震災起きたのである。

 

  • 村上隆の《五百羅漢図》

村上隆が、大震災の追悼を考えたときに描いたのが《五百羅漢図》。
テレビで両親を地震で失った幼い子に、レポーターが「きみのお父さん、お母さんは死んじゃったんだけど、きみのことをずっと見てるんだよ。だから元気で生きていかなくっちゃだめだよ」と言っているのを見て、マスコミまでが嘘を言わなくちゃ生きていけない酷い状況に対して、何ができるんだろうと考え、この五百羅漢図を思いついたとのこと。

羅漢さんは江戸末期の民間宗教で、五百はたくさんいるという意味。目黒に五百羅漢寺というのがあって、その羅漢さんの中に、自分の身内に近い顔を必ず誰もが見つけ出すことができる。それにお祈りすることで、様々な問題が解決したり、救われたりするという民間伝承があって、この羅漢伝承にのっとって、村上さんは五百羅漢図を描き始めた。

その描き方が、たいへん衝撃的で、全国の美術大学、美術科のある大学をキャラバンして、その中から百五十人の画学生をノミネートして朝霞のアトリエに呼び寄せ、アイデアを出させて、村上さんが採用したそれらのアイデアを村上さん流の工房の手法で、絵画に総合化するということを行った。

その作品を海外に送り出す直前に見せてもらう機会があり、これは日本人が見なくちゃいけないと強く思った。そのことが2015-16年の森美術館での「村上隆の五百羅漢図展」の開催に繋がった。

 

  • PROJECT FUKUSHIMA

この他にも、いろいろなアーティストが東日本大震災に対して何ができるか考え始めた。
PROJECT FUKUSHIMAもそのひとつ。大友良英さんの公演には、全国から集めた風呂敷を縫い合わせたものを汚染されているかもしれない公園に敷き詰めてコンサートをした。

遠藤一郎というアーティストは、ワンボックスカーで7年間車上生活をしながら、行った先々で同乗者とトークショーをやったり、写真を撮ったりしながら、旅を重ねて、あとで見たら日本列島に九州から北海道までの間に、GPSで「ありがとう」という文字が描いてあって、それを世界に向けて発信するというプロジェクト。

3.11以降、このようにプロジェクト型の作品が前面に出てきた。

 

  • 2013年 東京五輪の決定

2012年のロンドンオリンピックで言われたカルチュラル・オリンピアードのように、スポーツのオリンピックに対して、カルチャーを競う契機になり、日本でも文化プログラムを地方公共団体までもが取り組みはじめるようになった。

東京オリンピック・パラリンピックの文化プログラムを先導する、東京都のリーディングプロジェクトのひとつに、日比野克彦さんが監修する「TURN」があり、アールブリュットや障害者を視野に入れた表現分野への多角的なアプローチが大きな評価を受けている。

アートが具体的に社会の役に立つという風潮に対して、ブライアン・イーノ(Brian Eno, 1948~)というミュージシャンがある提言をしたことがある。「世の中の人がアートに対して誤解している。役に立つものだと考えているのじゃないかと。しかしそれは誤解でアートは無意味なもの。無意味で役に立たないものであることを再認識してほしい」と。無意味で役に立たないものだと認めたときに、役に立つ場合もあるかもしれないけれど、役に立たない場合の方が多いんじゃないかと。

ニコラ・ブリオーが次なる論文で、関係性において芸術が成立するのではなくて、ある絶対的な美の領域があるのではないかというビジョンを出すのではないかと、まことしやかに囁かれている。

 

  • ITの進化

それまでは、メディアアートというと、都市機能をメディアに使用したアートのことを言っていたが、昨今はチームラボやライゾマティクスのような、ITをつかった表現が生まれている。
ゲームやプロジェクションマッピングのようなものを取り入れながら、そのアプリケーションの展開を、アーティスティックなものとして汲み取れるという世代まで、時代の知覚が変化してきている。

 ___________________________________

1990年前後は、ドイツ東西の壁の崩壊、ソビエト連邦の崩壊、そして日本のバブル崩壊、その後の90年代はITの進化によって、アートのあり方やアートと社会の関係が激変してきた。
そして、2010年代の表現としては、東日本大震災と東京五輪の決定に向かうプロセスが大きな変貌の契機になった。
サブカルチャーやITメディアの進化と並行して、プロジェクト型の作品が明らかに日本では大きなコンテクストを形作りつつあり、それは日比野さん等がリードする形でやってきたことでもあって、それが認められたことが東京藝術大学の学長に就任につながった大きな要因ではないかと思う。

 ___________________________________

■高橋信也氏 プロフィール
1951年 京都生まれ。1974年 安部公房スタジオ入団。1975年 株式会社ニューアート西武入社、その後、同常務取締役。1997年、および2017年より株式会社 ニューアートディフュージョン(NADiff)専務取締役。この間、河原温、荒木経惟、大竹伸朗、村上隆、奈良美智、蜷川実花、会田誠、山口晃等のアーティストとともに、様々な展示企画を行う。
2003年 森ビル株式会社に転籍し、森アーツセンター開設にともない、六本木ヒルズ開業のシンボルキャラクター「ロクロク星人」(村上隆)のプロデュース や、六本木ヒルズ、表参道ヒルズ等の直営ショップをプロデュース。
2004年 森美術館開館と共に同ジェネラルマネージャーに就任し、美術館の経 営・組織運営等のマネージメントを行う。その後、森ビル株式会社取締役、上海秀仕観光会務有限公司董事、森ビル/森美術館顧問、「六本木アートナイト」事務局長等歴任。その間、各美術関連団体の理事、評議員等を歴任。大学等での講義やアートプライズ等の審査員も多数。
現在、2017年よりニューアートディフュージョン専務取締役再任。2018年より京都市京セラ美術館事業企画推進室ゼネラルマネージャーとしてリニューアル準備、および事業推進に携わる。

以上


高橋信也氏 講演「都市とアートの新しい関係 (2)」 (要旨・前半)

2022-02-05 10:39:33 | Weblog

オンライントーク プログラム
「都市とアートの新しい関係 (2)」

■講師:高橋信也氏(京都市京セラ美術館 事業企画推進室ゼネラルマネージャー)
■日時:2021年 12月5日(日) 14:00〜16:00
■参加者:34名

 

______________________________________________________________________

まず、前回(5/29)のご講演の整理を簡単にしていただいた後で(詳細は前回のブログをご参照ください)、下記項目についてお話いただきました。

1 日比野克彦氏 東京藝術大学学長就任の意味と衝撃!

2 その変化はどこから来たのか?
  その大きな要因と起点

3 変化の兆候—南半球の北半球化?

4 地域のテーマや社会課題にどう向き合えるのか?

5 アート表現に関わる変化
 (1990年代後半から2000年代前半)

6 3.11とその後の表現—2010年代

(1~4 前半、5,6 後半に分けてアップしています)

______________________________________________________________________

1 日比野克彦氏 東京藝術大学学長就任の意味と衝撃!

 

  • 六本木アートナイトで関わる

日比野克彦(1958〜)さんとボクとの関わりは、森美術館ゼネラルマネージャーの頃、実施していた「六本木アートナイト」。そのアーティスティックディレクターを3年間お願いした。
六本木の街を舞台に一昼夜のアートイベントをする内容で、70組以上のアーティストが集結した。全国から衣類を集めて、解体し、繋ぎ合わせて大きなカーテンを作り、会場に張り巡らせたり、テントをいくつも作ってアーティストが意味不明な人生相談を一昼夜行うなど、不思議なプロジェクトを数多くやった。
「アートナイト」は一昼夜だけなので、「瀬戸内芸術祭」などとは違って、都界の真ん中で都市生活者のお祭りはどんな形があるのかを考えたときに生まれたアートイベント。

 

  • プロジェクト型アーティスト

日比野さんは、80年代初頭ニューペインティングというムーブメントが出てきたとき「段ボール絵画」で鮮烈なデビューをされて、グラフィックデザインの分野でも活動されてきたイメージがあるかと思う。が、90年代初めからは作品を展示するというよりは、プロジェクト型アートイベントのリーダー的存在のアーティストである。

その現代美術のプロジェクト型アーティストが、絵画・彫刻の団体展、公募展など近代のプロセスを支えてきた拠点である東京藝大の学長になるのは衝撃的なニュースだった。これまでの団体展・公募展のあり方では現代に対応しきれないと認めたことになるのではないか。
地域や社会、さらに地球規模の課題に対して、多角的な視点でアートがどう対応できるのかが求められている。

日比野さんの考えに近いのは、パリのパレ・ド・トーキョーの館長をやっていたニコラ・ブリオー(Nicolas Bourriaud,1965~)が1998年に刊行した『L’esthétique relationnelle』(関係性の美学)という本。この本は「人と物事」「事物と物事」「行為と物事」が関わることでアートが生まれてくるプロジェクト型アートについて言及した一番最初の本と言われている。

 

______________________________________________________________________

2 その変化はどこから来たのか? 
  その大きな要因と起点

 

  • 1989年ドイツ東西の壁の崩壊、1991年ソビエト連邦が崩壊

国境や人種、宗教、文化がヨーロッパでシャッフルされ、その再編をするプロセスを歩み始める。日本ではほぼ同時期にバブル崩壊が起きた。

1992年に、フランシス・フクヤマ(Francis Yoshihiro Fukuyam, 1952~)という哲学者が書いた『歴史の終わり』には、歴史が終わるということはイデオロギーによる社会支配が終わるとされている。イデオロギーによって組み立てられた構造が社会を牽引していくということが、20世紀のほぼ終わりと同時に終焉するのではないかという考え方である。

 

  • 1995,6年あたりのITの急速な変化

急速なインターネットの地球規模での普及と情報のグローバリゼーションがいきなり起きる。携帯等のドラスティックな進化やウェブ社会の到来によって、通信手段の不可逆的な革新とオンラインコミュニケーションの日常化が起きた。

 

______________________________________________________________________

.変化の兆候—南半球の北半球化?

 

  • 「大地の魔術師」展

1989年にパリのポンピドゥセンターで開催された「Magiciens de la Terre(大地の魔術師)」展。西洋美術の牙城であったポンピドゥセンターが、西洋の美術、美学に寄らない表現を初めて認めた展覧会とされている。アボリジニ、アメリカの原住民、アフリカ各地のアート等が展示された。

 

  • 「アフリカ・リミックス」展

「大地の魔術師」展の、いわば第2弾の展覧会が2006年に森美術館で開催した「アフリカ・リミックス」展。「大地の魔術師」展から十数年経ったとき、アフリカの美術状況はどう変わったのかを見ることができた展覧会である。
ヴァナキュラーなアートはすっかり姿を消して、アフリカのアーティストがアートとしてそのコンテクストを学び、インターナショナルな言語としてのアートを使って、アフリカならではの強いメッセージ性を放つアーティストになっていた。

 

  • 南半球の北半球化?

浅田彰さんや柄谷行人さんが言っていたのは「南半球の北半球化がインタ〜ネット社会を通じて急速に行われたのではないか」と。
アートが欧米のルールによって成立していた視覚表現だとすると、そのルールをあっという間に学習した中南米、インド、ASEAN10カ国、アフリカのアーティストが、そのコンテクストに沿ってメッセージを発信しはじめた。90年代の社会変化と機を同じくして、その変化はアートの分野でも進行していた。

 

  • カルチュラルスタディーズ(文化学習)とマルチカルチュラリズム(多文化主義)

その変化を支えるふたつの考え方として、カルチュラルスタディーズ(文化学習)とマルチカルチュラリズム(多文化主義)がある。
欧米に対して中国の美意識、インドの美意識、アフリカの美意識等、どれも大事で、それぞれ相互学習を等価の形で学んでいかないといけないとする考え方である。

 

  • 「アート」という呼び方

コンテポラリーアートとモダンアートを分割して呼称していたものを、多分野を包含する呼称として、「アート」と呼びならわし始めた。
ファッション・建築・デザイン・写真といったさまざまな分野からも、その国独自のコンテクストを読み取ることができるのではないか。それらを全部認めてアートのエッセンスを引き出すことで、アートとして認めていこうという動きである。ダイバーシティ(多様性)への布石でもあった。

 

________________________________

4 地域のテーマや社会課題にどう向き合えるのか?

 

90年代の社会課題を日本で初めて取り組んだのが、2001年の「横浜トリエンナーレ」。 100名以上の国内外のアーティストが集結。キュレーターも4人(南條史生さん、中村信夫さん、建畠晢さん、河本信治さん)。日本全国に様々な地域で活動していた人たちが集まってキュレーションを行った大型国際展である。ワールドワイドなトレンドに対応して行われたことでインパクトは強かった。

この横浜トリエンナーレが契機となって、並行して行われていた越後妻有アートトリエンナーレ、その後、愛知トリエンナーレ、瀬戸内芸術祭、札幌芸術祭、また六本木アートナイトなど、屋外型、都市型アートイベントに発展していったと思う。
さまざまな地域のテーマや社会課題に対してアートがどう向き合えるのか、という問題設定が、90年代~2000年代を通じて必然的に出てきた。

 

 (後半に続きます)