美術館にアートを贈る会総会(2016.11.16) トーク要旨
市民が支える美術館 日本とアメリカ(1)
蓑 豊(兵庫県立美術館 館長)
【ボランティア活動は必須】
私の子供たちはアメリカで育ちました。アメリカでは子供のとき、スポーツとボランティアが大事と教えられます。
スポーツでは、一番になることが大事なのではなく、毎年自分の記録がどれだけ良くなっているかどうかが見られます。つまり努力をしているかどうかを評価されるのです。
ボランティアをどれだけしたかも重要です。ボランティアをしていないといい大学に入学することはできません。私の子供の場合は、教会で字が読めない子供たちを1年間助けていました。その教会が書いた評価を大学に提出するので、みな一生懸命ボランティアをすることになります。
また大学入試の際には、なぜこの大学に入りたいのかの論文を提出します。その論文は実際に大学を見ていないと書けないので、高校二年生ぐらいから大学巡りをします。
美術館にもボランティアがたくさんいます。1年間したボランティア時間を計算して、その人の所得からそのボランティア活動費が引かれます。たとえば、年間所得800万円とすると、そこからボランティアで働いた分100万円分が控除されて申告できることになります。これだけ働いたのだから弁当代や交通費を出せというのは完全なボランティアではありません。
【学芸員やキュレーターの仕事】
美術館のキュレーターや学芸員は非常に尊敬されます。大学の教授と同じレベルで見られますからやりがいもあります。
私がいた美術館の東洋部は、毎年数億の基金をもらっていました。その中に、浮世絵の大コレクターがいまして、浮世絵は買えますが他のものが買えません。すると他の部からお金を取りたいので競争になります。そこで、基金を出してくれる人を掴むことがキュレーターの最大の仕事になるのです。多くの基金を集めることができる人間が、いい美術館に行くことができます。
展覧会を開くときは、美術館は開催費用の10分の1出すかどうか程度で、他はキュレーターが自分で集めてきます。ですから必死にお金集めをします。コレクターと食事をするなど、いろいろなお付き合いをします。そのためには普段から新聞を読む、本も読む、運動もするなど、いろいろな勉強をしていないとコレクターとのお付き合いはできません。家族と一緒に旅行に行ったりすることも大事で、彼らにとっても学芸員と一緒に旅行できることがプライドになります。キュレーターとコレクターはとても近しい付き合いになります。
私も30年もアメリカにいますと、野球選手のように、いろいろなところを渡り歩きました。ハンティングされ渡り歩いた方が給料は上がっていきます。しかし、基金を集めてこないと平気で首になります。アメリカと日本の美術館では世界が違うので比べづらいです。
私がいたシカゴ美術館では、ハイアットホテルのオーナーが東洋部の理事長でした。そのプリツカーさんに言ったことがあります。「今、シカゴ美術館の東洋部はあるけれども戦争があったら、特に日本や中国のコレクション部は真っ先に潰れる。それを救うために基金を作ってくれ」すると作ってくれたのです。トランプ大統領になって何が起こるのかわかりませんが、彼が必ず守ると言ってくれたので東洋部は安泰で、コレクションも心配ないでしょう。
【寄付金を集めるコツ】
日本の国立美術館や博物館の館長が集まって会議をしたとき、「寄付金を集めるコツを教えてくれ」と言われたことがあります。「みなさんは寄付をしたことがありますか?寄付したことがない人がどうして他の人からお金がもらえますか?」と私は怒りました。自分の出た大学、高校に1万円でも寄付をすることが自然になると違ってくるでしょう。
【贈る会の意義】
日本は借金の国。国や自治体のお金を頼りにしていたら美術館はやっていけないと思います。だからこそ、皆さんの基金でやっていく必要があります。そのためには、やはりたくさんの人が美術館、博物館に来てくれるような努力が必要です。良い企画をする、良いコレクションを美術館に収める、そうすると自分の子供も美術館に連れて行きたくなります。
いただいたコレクションを使って良い展覧会を開催すると寄付した人も喜ぶ、寄付した人もやりがいを感じます。今ではなく、10年後、20年後、孫の代をつねに考えて仕事をしてほしいと思います。
この「美術館にアートを贈る会」のような活動が日本でも始まっていることに嬉しくなりました。寄付金の多い少ないではなく、その気持ちが日本にも生まれてきていることが嬉しいです。是非ともこの会を長く継続していただき、全国に広がればいいなと思います。
【10年後、20年後を考える】
コレクションは流行もありますので、投資ではなく、この作品はどうしても大事だと信じ、たくさんの人に理解してもらえるようなコレクションを集めてほしいと思います。10年後、20年後にこの作品はどうなっているのかを考えてほしいです。
私は金沢に新しい現代美術の美術館、金沢21世紀美術館を作りました。本当に何もないところから美術館を作りあげ、喜びを感じました。完全なコンテンポラリー、1980年以降の作品を買う美術館。最初はとにかく大反対で議会でも「こんなものばかりだと人は絶対に来ない。頼むから名画(例えば印象派の絵画)を買ってくれ」と。私は未来の美術館を作りに来たので、それを作らせてくれないのならこの美術館にいる必要はない、と言いました。私は子供に現代美術の楽しさを教えたかったのです。子供が親を連れてくる美術館にしたいと考えました。
先日、小学校、中学校の全国学力テストがあり新聞で発表されていました。今年は、石川県がトップ。市長に手紙を書きました。「美術館での感性がいろんな学問に影響を与えている。10年後を考えて美術館をつくりましたがその成果が出できました。」現代美術は、子供達によくわかります。すごく感じるものがあります。
【建築が街を変える】
私はインディアナポリス美術館の学芸員を8年間やりました。先日、兵庫県建築会創立70周年記念の講演会で「建築が街を変える」というお話をしました。コロンバス(インディアナ州)という街が今世界的に建築の街になっている理由。それは1940年ごろに、カミンズ(Cummins)というディーゼルエンジンの会社の社長がどうしたら素晴らしいエンジニアを呼び寄せることができるかを考え、小・中・高の公共の建物全部を、世界的に知られた建築家に設計してもらうことにしたことです。最初に1941年にはエーロ・サーリネン(Eero Saarinen、1910年8月20日 - 1961年9月1日)を呼びました。カミンズの社長アーウィン・ミラー(Joseph Irwin Miller、1909年5月28日 –2004年8月19日)とサーリネンが約20名の建築家(プリツカー賞を受賞した建築家が5人含まれます)を選び、彼らに公立学校全部を設計してもらったのです。町中がすごい建築なのです。そういう校舎の環境で勉強するとすごい優秀な子が出てきます。自分たちの子供はコロンバスで育てよう、カミンズで働かそうとなります。
コロンバスには、ミラーさんの自邸があります。サーリネンは個人邸を設計しないのですがミラー邸だけは別。最高にシンプルでミニマリスト。亡くなってから今は美術館が運営しています。この話をした理由は私とミラーさんは付き合いがありまして、ミラーさんは「今、売り上げを上げる」ではなく、子供の10年後、20年先を考えて仕事をしていたことを言いたかったのです。私も金沢は10年後を見てほしかったわけです。その結果今、毎年200万人が訪れる街になりました。
【新しい基金形態】
金沢21世紀美術館の設計をした建築家は、妹島和世+西沢立衛/SANAA。
その妹島さんが設計した「すみだ北斎美術館」。その美術館は基金集めをしていました。それは銀行(東京東信用金庫)とタイアップして、定期預金の運用による収益金の一部を「墨田区北斎基金」に寄付するというものです。
久留米でも、久留米市美術振興基金というのを始めていて、寄付金累計が3億という大きな基金です。こういう動きがあります。
皆さんも新しい取り組みも考えてみてはいかがですか?
【まとめ】 (美術館にアートを贈る会事務局 室谷・奥村)
ご用意いただいたスライドをお見せする前に時間切れになったような次第。まだまだお聞きしたい内容で、第二部を企画したいと思っています。
寄付文化が当たり前のアメリカ。日本にも寄付文化が醸成されつつあるように思います。市民の総意で美術館にアートを贈る当会の活動は、まさに市民と美術館との関わり方を大きく変える可能性を持っています。これからも引き続きこの活動を進めてまいります。
【 蓑 豊 プロフィール 】
1941年、金沢市生まれ。65年、慶應義塾大学文学部卒業。
69年~71年、カナダ・ロイヤルオンタリオ博物館(トロント市)東洋部学芸員。
76年、ハーバード大学大学院美術史学部博士課程修了、翌年同大学文学博士号取得。
76年~77年、カナダ・モントリオール美術館東洋部長。
77~84年、アメリカ・インディアナポリス美術館東洋部長。
85年よりシカゴ美術館に勤務し、中国・日本美術部長、東洋部長(94年まで)。
95年に帰国後は大阪市立美術館長、全国美術館会議会長などを歴任。
2004年4月「金沢21世紀美術館」館長に就任。同時に金沢市文化顧問を務め、05年4月より金沢市助役も務める。
07年4月より「金沢21世紀美術館」特任館長、大阪市立美術館名誉館長となる。
07年、歴史ある世界的なオークションハウスであるサザビーズ北米本社副会長就任。
2010年4月より兵庫県立美術館館長に就任。