2019総会・トーク交流会・懇親会
■日時:2019年9月27日(金)19:00〜20:00
■円座でトーク交流「瀬戸内の百島で新たな取り組み」
榎忠さん(現代美術作家)と一緒に
■要旨
榎忠さんのこれまでの活動
1) ジャパン神戸ゼロ
榎忠さんは1944年香川県生まれで、20代から独学で美術を始められ、70年代にJAPAN KOBE ZEROというグループを作りハプニングなどを先導されておられました。その一例として、ご自身の身体に万博のマークを日焼けで焼き付けて、ふんどし姿で銀座を歩くというパフォーマンスを行われました。この時は、すぐに警官に補導されたそうです。
榎『日本は高度成長期で、大気汚染や光化学スモッグ等の公害問題にあえぐ日本の祭りである、万博や歩行者天国といった祭りに対する、エノキ流のパフォーマンスだったのです。』
榎『僕は、展覧会が目的でなく、時間とか人間とか表現が問題であって、展覧会とか気にせずに時間をかけてやる中で、自然とか太陽とかをものすごく大事にしていて、それは環境問題なんかにも繋がっていると思います。作品とか意識せずに日常の中で造っていました。』
JAPAN KOBE ZEROには50人ほどのメンバーがいて、神戸の街を舞台にパフォーマンスを行い、多いときは150人ほどでアートパフォーマンスを繰り広げたそうです。
榎『JAPAN KOBE ZEROをやっている時は個人(榎忠)の名はなかった。神戸市には美術館がなくて、なかなか表現の場所がなかったので、美術館が欲しいなと思って、街を舞台にしてハプニングなどの活動を行いました。神戸には使ってない倉庫とかがたくさんあったので、それらを僕らが表現出来る美術館にできたらいいなと思ってました。時には150人くらいでパフォーマンスを行ったけれども、好ましくない表現ということで、怒られることが多くて、実際には美術館からは相手にされませんでした。この頃、日本の横浜、神戸は文化的には最下位でした。新しい表現の場が欲しい!現代美術館が欲しい!と叫んでいました。』
2)『半刈りでハンガリーに行く』
有名なのは、全身の毛を半分だけ剃ってハンガリーに行くという、「半刈りでハンガリーに行く」というパフォーマンスです。
榎『グループを辞めてから5年後の1977年に半刈りでハンガリーに行ったんです。ちょうど、パリにポンピドーセンターができた頃だった。その時はドイツのドクメンタ6に参加しましたが、半刈りの格好で列車で旅をして、植松圭二とか友達に会ったりしてました。先に左側だけ毛を伸ばしてハンガリーを旅してから、丸坊主にして、今度は右側の毛を伸ばすという馬鹿みたいなことをやってます。全体で6年か7年かかってます。時間とか空間を超えた旅する行為、すなわち展覧会とか美術を超えた表現です。』
3)具体美術協会について
万博当時は具体も盛んに活動していた頃ですが、榎さんは具体とゼロとの違いをこう述べられています。
榎『具体は立派な舞台とかやられていた。具体は吉原さんという資産家のリーダーの元で、今までにない表現をモットーに活動されていたけれど、僕らは金のない若い者なりの違った新しい表現活動をしていた。具体は絵画や彫刻という個人的な作品を作っていたけれど、僕は10年間ジャパン神戸ゼロという名前でやっていた。この頃は身体を使った表現が多かったね。自分の身体しか信用できないようなところがあった。人間の生きてる存在、広い意味の芸術を目指していた。』
4)大砲と銃器と薬莢
それまでパフォーマンスが中心だった榎さんが79年から鉄製の大砲や銃器をモチーフにした作品を作り始められました。
榎『初代は1971年に制作しました。79年はアートナウに個人参加しています。これは前の兵庫県の原田の森の美術館での展示で、これが一番大きくて長さが8メートルくらいある。これが二代目で、この時は部品を全部溶接でとめてるんですよね。だからレッカーで運ぶ必要があって、運賃がかかって大変だった。次からは組み立て式にして運搬を楽にしました。大砲は今までに8台作った。半分くらいは美術館とかに行った。』
今や榎忠さんの代表作である大砲を制作するようになった動機についてはこのように述べられています。
榎『小さい頃から竹で大砲を作っていたんやけど、竹だとどうしても爆発で割れてしまうので、鉄で作りたいなと考えてスクラップを集めて作り始めたけれど、美術館に展示していても、あまり美術を意識しないで作っているのがほとんど。祝砲の銘はLSDF(Life Self Defense Force)で、頭のLがJになれば日本国の自衛隊です。マシンガンなどの銃器も20年近く前からやってるけれど、一度はやめたんだけど、各地の戦争とか日本の武装とか、段々、おかしくなってきたので、もう一度、美術が武器と表現してみたいなと思って再開しました。』
大砲やマシンガンなどの銃器と一緒に大量の薬莢を使った作品も作られています。この作品について榎さんは次のように述べられました。
榎『作品「薬莢」は、7トンの薬莢を使っています。薬莢は米軍の海兵隊が使ったものが沖縄に集まってくるもので、トン単位で売ってもらいました。最近も紛争が続いているため、小さな薬莢はどんどん増えています。来年に向けて、第二次世界大戦中の大きな薬莢を使った展示を準備しています。これらの薬莢は、生活のために危険な地域から命がけで集められています。ここには百万発くらいの薬莢があるんですが、これらは人を殺す目的で作られて、人が造り、それを人が売買して生活する人がいるという矛盾した状況があります。アートでそういうことを伝えたいと考えています。』
5)バー・ローズ・チュウ
榎さんが女装してバーのママになるというパフォーマンスも有名です。
榎『昔、神戸には外人バーというのがあって、アメリカの第7艦隊とかの基地があったんですね。そこの船員が行く怪しげな外人バーがあったけど、僕らみたいな若いもんは、お金はないし、入れかったので、それだったら、自分らで作ろうと、79年にお金のいらない無料のバー・ローズ・チュウを二日間だけ開店しました。2006年にはキリンプラザでも再現して、ヤノベさんが榎忠とローズ・チュウが再会するという映画を作ってくれました。また、2011年の兵庫県美での個展の時にも一晩だけ開店しました。』
6)RPM-1200
銀色に光るロッドやギアなどを無数に組み合わせて積み上げた作品RPM-1200は多くの美術館に展示されただけでなく、高野山の金剛峯寺でも展示された作品です。
榎『RPM-1200は阪神淡路大震災の後に制作した作品で、廃材を使っています。全部錆びていたスクラップを旋盤やフライス盤や手で錆を落として積んでいます。はじめは廃材(スクラップ)を安く買っていましたが、錆とか人の生活が見えてきて、人間が何故作品を作るのかという永遠のテーマが生まれました。釜山ビエンナーレでは地震で崩れた作品をそのまま展示し続けて、迫力のある展示になりました。』
7)百島『百年の過客』
榎忠さんの最新の展示となる、百島でのプロジェクト『百年の過客』は柳幸典さんが主宰の展覧会です。榎忠さんは柳さんと釜山ビエンナーレで知り合って、今回の企画を進められたそうです。
百島の展示は2019年10月5日から始まります。百島には尾道から船で30分くらいで着きます。廃校になった中学校、旧映画館、旧支所、古民家で展示をしています。中学校のART BASE MOMOSHIMAには、常設展示もあります。百島は過疎の島なので、今回のプロジェクトで島に人が来てくれることを期待しています。今回のプロジェクトでは、榎忠さんと柳幸典さんの作品以外に、愛知トリエンナーレの「表現の不自由」展で問題になった大浦信行さんの版画も展示されます。榎忠さんはGOEMON HOUSEに大砲とマシンガンの作品を展示しています。そして来年になると薬莢が5トン運び込まれて、作品が完成する予定とのことです。他には、小泉明朗さんや池内美絵さんが参加しています。企画展「百代の過客」は10月5日から12月15日まで開催されました。
(記録:嶋津)