有田芳生の『酔醒漫録』

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大江健三郎さんと憲法集会のこと

2015-05-07 13:46:25 | 日記
5月3日に横浜の臨港パークで行われた憲法集会に行ってきました。ヘイトスピーチが行われるデモに抗議に行くのもそうですが、現場の空気のなかに身を置いて、そこから伝わってくる実感なしに、書物や活字から得る理論も理念も、どこか観念に留まってしまうという確信があるからです。海から届く風が爽やかな、しかし熱気にあふれた集会でした。主催者発表で3万人。大江健三郎さんは公で挨拶するのはこれが最後だと語り、安倍首相を批判しました。昨年のことです。日比谷野外音楽堂で行われた集会の控室で久しぶりに大江さんにお会いしました。大江さんは僕のことを「有田ほうせい」と呼びます。「芳生」を「よしふ」ではなく「ほうせい」と音読みされるのです。親しみの現れだと勝手に理解しています。 そのとき大江さんがこれからの作家活動をどうされるのかを聞きました。何しろ高校時代から大江さんを読みはじめた長年の読者なのです。共産党から離脱するまで上田耕一郎さん(副委員長)に師事していた時期がありました。やはり大江ファンだった上田さんとは、その作品の読み方についていろいろと教えてもらったものです。『同時代ゲーム』が出たときのことです。「これは大江の国家論なんだよ」と言った上田さんは、ソ連共産党との会談に向う機内で読むと言っていました。帰国後に読みましたかと聞いた時「いろいろ資料を読まなくてはならなかったので、途中までだったよ」と笑っていました。たしか書評を書いてもらったはずです。雑誌編集をしていたときには、大江ー上田対談を企画したこともあります。大江さんからは丁寧な辞退の葉書をいただきました。上田さんの国会での追及はよく見ているけれど、対談は荷が重いと書かれていました。そこに「テレビ」ではなく「テレヴィ」と表現されていたことが印象的でした。そうした企画の発想がのちの小田実ー上田対談へとつらなったのでした。控室の端っこに座っている大江さんはこう言いました。「もう小説は書きません。これまでの短編を岩波書店から出す予定で、これからは呼ばれれば市民のなかに出かけて脱原発などについて話をしていくつもりです」。しばらくして岩波文庫で『大江健三郎 自選短編』が出版されました。大江さんから市民のなかで訴えていくという思いは消えたのでしょうか。集団的自衛権の行使を実現する安保法制の国会での議論を前に、憲法集会で語った大江さんのスピーチには暗いトーンが底流にあったように思います。大江さんの最後の小説は『晩年様式集』です。そのラスト部分に「形見の唄」という詩があります。「3・11」の前に大江さんが書いたものです。その最後のあたりを引用します。「気がついてみると、/私はまさに老年の窮境にあり、/気難しく孤立している。/否定の感情こそが親しい。/自分の世紀が積み上げた、/世界破壊の装置についてなら、/否定して不思議はないが、/その解体への 大方の試みにも、/疑いを抱いている。/自分の想像力の仕事など、/なにほどのものだったか、と」。そしてこう結びます。「私は生き直すことができない。しかし/私らは生き直すことができる」。大江さんたちの世代の火を継ぐ「私ら」の一人として、しかも国会議員の責務を与えられたものとして、時代の課題を果たすべく進んでいこうと決意も新たにしたのです。緑陰に吹いてくる海風を感じながら、身体のなかから静かにわきあがるものがありました。(2015/5/5)

「幸せな無名時代」

2015-04-09 15:08:29 | 日記
ラジオ日本「岩瀬恵子のスマートNEWS」の出演が終わったのは8時です。そのまま新橋に送っていただき、喫茶店で書いています。ラジオ局に向かう車窓から景色を眺めていると、懐かしい想い出が蘇りました。「週刊新潮」の次長だった亀井淳さんが亡くなったのはいつだったでしょうか。雑誌編集をしていたころ、弁天町のマンションに招かれ、亀井さんがカツオを炙ってタタキを作ってくれたこともありました。そのマンションを少し進んだところに「塩丁」という居酒屋がありました。「朝日ジャーナル」の校了を大日本印刷で終えると、筑紫哲也編集長をはじめ、スタッフはこの店で酒を飲みながら、話に花が咲いたものです。フリーランスになったばかりで、人生の先行きがまったく見えなかった時代です。1980年代から半ばにかけてのころでした。ガルシア・マルケスのいうところの「幸せな無名時代」です。その後、意図せずして霊感商法問題やオウム問題で、名前と顔を世間にさらすことになってしまいました。20年前のオウム報道で多忙を極めていたころ、たまたま時間ができた日曜午前のことです。小学校2年だった次女と買い物に行くとき、「1メートル離れて歩いて」と言われたことがあります。僕の姿は世間から好奇の眼差しで見つめられていたのでした。子供なりに困惑したのでしょう。あれからもう20年が過ぎていきました。(2015/4/8)

桑田佳祐さんが横田めぐみさんを歌った

2015-04-04 12:13:08 | 日記
拉致被害者家族と首相が約1年ぶりに対面しました。家族会からの要請によるものでした。本音は会いたくなかったのです。北朝鮮とのストックホル厶合意からもう1年が過ぎようとしていますが、成果がないからです。戦略的な間違いをこれからも続けていくのでしょうか。北朝鮮は昨年9月から10月に1回目の報告をする予定でした。4つの分科会はどういう体制で、全土にどのように配置されているかというものでした。もちろん拉致問題の調査にいちばん人員が割かれているということも明らかにしようとしたようです。ところが日本側は「拉致問題の報告がない」として報告を拒否しました。ストックホル厶合意では、随時報告するとあるのですから、1年と期限を区切った報告を淡々と聞いていき、拉致問題の報告を急がせればよかったのです。それで終わるわけではありません。報告を聞き、それを検証していく重大な課題が勝負どころです。このままでは1年を超えた交渉となるでしょう。しかも政府は事実さえ認めませんが、特定失踪者について、北朝鮮に照会リストを提出していません。おそらく政府の方針は「政府認定拉致被害者」の安否確認を最大の目的にしているのでしょう。平壌で昨年10月に行われた日朝交渉では、「これから報告します」という北朝鮮側の発言を多くの記者が聞いています。そこで会場から出されたのですが、じつは「日本人妻」や残留日本人についての報告が行われています。これまた日本政府は認めないのです。昨夜、横田早紀江さんと話をしました。精神的にも肉体的にも限界です。サザン・オールスターズのニューアルバム「葡萄」に横田めぐみさんを歌った「Missing Persons」が入っていることもお伝えしました。(2015/4/4)

北朝鮮の通告にどう対処するか

2015-04-03 09:28:39 | 日記
〈北朝鮮がこのままでは日朝交渉を続けられないと通告してきたことをどう見るか。「揺さぶり」などといってもはじまらない。原点は昨年5月のストックホルム合意だ。その解釈を変更したのは日本政府だった。「すべての日本人の問題」を解決する時間は約1年。課題ごとに淡々と報告を受ければいい〉。ツイッターにこう書きました。日朝交渉に「異変」が起きたのは、じつは昨年12月でした。日本側と北朝鮮側の連絡が切れたからでした。外務省はその事実を官邸に報告していなかったようです。このままでは日朝交渉が進むかどうか危ういと判断したのでしょう。官邸に報告してしまえば、誤った指示が出てくる可能性さえあります。官僚はそれを拒否することができません。しかし日本側からの働きかけで、1月末には上海で、2月28日、3月1日は大連で水面下の交渉が再開されています。北朝鮮側が複数のルートで接触してきたという報道はあべこべです。リーク報道は事実を歪めます。問題は3月に接触が行われないなかで、こんどの北朝鮮の態度表明が行われたことです。問題を国連に広げたこと、朝鮮総連議長宅の家宅捜索を行ったことを非難していますが、それは「建て前」だと理解しておいたほうがいいでしょう。もちろん日本政府の対応に批判的だというのは、相手の立場に立てば誰でもわかることです。大きな勘違いは圧力を強めれば相手が折れてくるという思考です。日本国内の世論に向けて威勢のいいことを主張していても日朝交渉は進みません。外交とはギブアンドテイクです。拉致問題で強い怒りがあるのは当然です。しかし外交は粘り強く交渉することで自らの目的を少しでも実現していくことです。ツイッターに書いたように、ストックホルム合意を原点に、「日本人妻」。残留日本人、日本人遺骨、拉致問題のそれぞれの課題について報告を受ければいいのです。拉致問題の報告が最初になければ「報告ではない」という立場を取っていれば、いつまで経っても入口から進むことはできません。(2015/4/3)

麻原彰晃=松本智津夫死刑囚の刑の執行について

2015-03-29 07:00:08 | 日記
法務委員会で質問しました。民主党の持ち時間は80分。自民党は短縮して15分。維新をはじめ他党はそれぞれ25分ですから、長丁場の質問でした。テーマは「終わらないオウム事件 ヘイトスピーチの現状」です。地下鉄サリン事件から20年。マスコミでは多くの特集が組まれました。次に大々的に報じられるのは、予想される麻原彰晃=松本智津夫死刑囚の刑の執行時でしょう。死刑執行問題も質問しました。刑事局長は個別問題にはお答えできないと語りました。実は法務当局が刑の執行に強い意志を持っていることは何年も前に確認しています。刑事局長の答弁で注目したのは、一般論として共犯関係にある被告人の裁判が終わらなくても、刑の執行はあるかと聞いたことに、否定しなかったことです。麻原彰晃=松本智津夫死刑囚が、心神喪失状況にあるのではないかとも聞きましたが、そこでも答えはありませんでした。刑事訴訟法の規定で、心神喪失していたなら、刑の執行は行われません。最後の逃走犯となった高橋克也被告の一審は4月に終わります。おそらく無期懲役の判決が出ますから、控訴しても来年いっぱいまでには判決が確定します。松本智津夫死刑囚の刑の執行の条件は、こうして整備されていきます。もしも執行されるなら、精神鑑定を形式的に行い、「正常な判断能力があった」とされることでしょう。刑の執行は「ブラックボックス」のなかで進行するのです。しかし、それでオウム問題は終わりません。いまでもオウム残党組織に新たに信者が入っていく現実があります。その社会的背景を掘り崩していかないと、オウム残党だけでなく、カルト(熱狂集団)に若者が取り込まれていってしまうからです。入信の背景にある家族問題、反抗期の欠如問題、社会性や社会科学的認識が乏しい問題などなど、日本社会が取り組むべき課題は多いのです。地下鉄サリン事件から20年も経過するのに、大事な問題が埋められることなく、すっぽりと空いたままです。教祖の裁判を傍聴した当時の写真と比較して、ときの流れを実感しています。(2105/3/27)

「イデオロギーよりもアイデンティティ」

2015-03-26 07:49:36 | 日記
那覇に着いてそのままキャンプ・シュワブへと向いました。声をかけ、握手を求めてきたのは立命館大学と同志社大学の学生でした。さらに歩いていると「東京から来ました。SASPLに所属しています」と言われました。SASPLとは特定秘密保護法に反対する学生のグループです。ヘイトスピーチに対峙するカウンターとして現場でお会いした学生たちでもあります。翌朝お会いした翁長雄志知事が語った言葉で印象的だったことは「イデオロギーよりアイデンティティー」というものです。思想信条などの違いではなく、沖縄県民としての自己証明の方が大切だということです。もともとは琉球王国という独立国が、薩摩藩によって併合された歴史にまでたどるのでしょう。さらには日本で唯一の地上戦を経験し、いまでも本土の0・4パーセントの土地に76パーセントの基地があるという不平等は、沖縄県民にしか実感としてわからないことです。人種差別撤廃委員会の日本審査でも、差別問題として「琉球・沖縄」問題が勧告されています。そうした状況にわたしたちはどう対処することが求められているのでしょうか。「第二の琉球処分」といわれる沖縄の歴史をもっともっと知ることです。わたしたちが暮す本土のありようを照らし出す「方法としての沖縄」です。(2015/3/24)

翁長雄志知事の「腹八分目の精神」

2015-03-25 07:57:12 | 日記
3月16日の朝。那覇から久米島に向う前に、翁長雄志知事を表敬訪問しました。「いまの仕事の8割ぐらいが基地問題です」ーーこの発言に沖縄の置かれた現状が表現されていました。名護市長選、知事選、さらに衆院選4小選挙区では、すべて辺野古移設反対候補が勝利しました。この沖縄の民意を踏みにじる政府の強行路線がさらに進んだなら、知事はどうするのでしょうか。そう問うたところ、こんな趣旨の言葉が戻ってきました。「日本政府が民主主義を踏みにじることですから、世界中で問題とされるでしょう。中国問題もありますが、いずれアメリカと協力関係になれば、政府の立場はなくなります」。そして知事になってからの気持ちをこう説明しました。「これまで腹八分目、腹六分目でやってきました。だからオール沖縄が成り立ったんです」。知事は安保賛成と言わない、だから共産党も安保反対と言うなと注文したそうです。翁長知事は沖縄自民党の幹事長経験者です。その老練さがこうした手法に現れているように思いました。「腹六分目」とは政府に対する対応だとも読み取れます。首相や官房長官が面会を拒否してきた異常な事態に対して、批判をしなかったのは、ガマンをしてきたからです。政府に沖縄が抵抗しているという構図を作るべきではないと判断したといいます。「痩我慢の精神」(藤田省三)です。知事が近く「最大の決意」をするというのは、こうした流れで判断すれば、「本音」=沖縄の民意を真っ正面から表明することではないでしょうか。知事と会う前夜、ある町議が「沖縄はいまだ植民地状態にある」と言いました。この「植民地」とは、アメリカによるものだけではありません。沖縄ではいまだアメリカと日本の植民地だという認識が強いのです。(2015/3/23)

時間の流れと同時代について

2015-03-10 09:30:08 | 日記
ぼくが生まれた1952年2月20日は、そのわずか20年ほど前の1933年に築地署で作家の小林多喜二が虐殺された日でした。「わずか20年」とはまさに実感です。阪神大震災、そしてぼくの人生を大きく変えた地下鉄サリン事件が起きた1995年から20年になります。あの日の行動はいまでも鮮明に覚えています。夕方には池袋で「カメラマン」という映画を見て、バーのカウンターで知人たちと話をしていました。話題は当然のように地下鉄サリン事件でした。ぼくが「あれはオウム真理教がやったことだ」というと、誰一人として信じる人はいませんでした。その翌日は熊本に出張。強制捜査が3月22日にあるから早く戻れと電話をくれたのは、「朝日ジャーナル」編集長だった伊藤正孝(当時は朝日新聞編集委員)さんでした。強制捜査の報道をテレビで見て東京に戻ると、「NEWS23」への出演が待っていました。いま「報道特集」でキャスターをつとめる金平茂紀さんからの依頼です。筑紫哲也さんから聞かれたのは、オウム真理教という団体についてでした。人生にはくっきりと刻印される特別な日があるのです。ぼくの誕生日から10年前に流行っていた言葉は「欲しがりません勝つまでは」や「非国民」でした。東条英機内閣の時代で、2月23日には「翼賛政治体制協議会」が成立しています。10年の時間とは、社会の実相を根本から転換してしまうのに充分な流れなのです。人間の一生は長くもあり短いものなのでしょう。これまでの20年、これからの20年。いまの危険な政治情況について楽観はできませんが、悲観もしていません。あえていえば「澄んだニヒリズム」(宮崎駿)でしょうか。リアリズムに裏付けられたニヒリズムは、宮崎さんに言わせれば人間を否定するものではありません(堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿『時代の風音』)。「人生後期の仕事」をもう少し持続するつもりです。誕生日の今日は武田泰淳『滅亡について』を地下鉄での読書にしながら、いくつかの仕事をこなしてすごします。写真は昨夏に訪れたアウシュビッツです。きっと当時も美しい花が咲いていたのです。生活の現場にこそ現実を切り開く光があります。みなさんからのお祝いのことばに心から感謝いたします。(2015/2/20)

暮らしと日本の未来がかかる総選挙がはじまった

2014-12-02 12:44:07 | 日記
  こんどの総選挙はわたしたちの暮らしとともに日本の進路がかかっている重要な短期決戦です。首相たちの言葉の詐術にもはや騙されてはなりません。そもそもどうしてこの時期に総選挙をしなければならないのでしょうか。首相は消費税を10パーセント上げるのを1年半先延ばしにしたことの信を問うといっています。おかしな話です。消費税が当面あがらないことを多くの国民は喜んでいます。それが解散・総選挙の理由にはなりません。各種世論調査を見ても、この時期の総選挙には7割の人たちが否定的です。ではなぜいま総選挙なのでしょうか。鐘や太鼓を大きく鳴らして宣伝してきた「アベノミクス」が失敗し、このままでは来春にはもっと厳しい経済状況が生まれるからです。「景気回復の実感がない」とする人たちは世論調査でも8割以上を占めています。首相は雇用は増えて賃金も上昇していると誇ります。数字のマジックです。非正規の労働者が増え、実質賃金は15か月も減っているのが日本の実情です。賃金が上昇しているのは資本金が10億円以上の大企業であって、99・7パーセントを占める中小零細企業は厳しい情況が続いているのです。いま日本に流通している現金はバブル時代の6倍にものぼります。それでわたしたちの暮らしはよくなったでしょうか。経済の専門家に言わせれば、「異次元の金融緩和」を行うことによって、気分が変わったといいます。そういう効果が賃金にまで及んだかといえばまったくそうではない。それが街場の実感です。国会の状況を見れば、「そこのけそこのけ自公政権が通る」とばかりに、数を頼んで特定秘密保護法や集団的自衛権行使の閣議決定が強行されました。いまの政権では日本の戦後体制がなし崩しに「戦前体制」へと変質させられようとしています。ここで歯止めをかける。それが総選挙の重要な課題です。1議席でも与党を減らしていく。そのための12日間を駆け抜けていきましょう。(2014/12/2)

首相の逃避行のような外遊日数は国会会期の約4分の1

2014-11-19 15:39:31 | 日記
 民主党は「大儀なき解散」は許さないとして、参議院では今朝の本会議以降はすべての審議に応じないという方針を決めました。衆議院でも同じです。参議院議員はすでに地元に戻っています。いよいよ衆議院選挙。さきほど地下の喫茶店に珈琲を飲みに行きました。すでに議員会館は閑散としています。消費税を2015年10月から10パーセントに上げるのをやめるなら、法律を改正すれば足りることです。それをせずに総選挙を選択した背景には、首相自身の焦りがあるとしか思えません。直接的には7月から9月までのGDP速報値を見て判断したことになっています。しかし首相が解散を思いついたのは11月はじめです。9月に内閣を改造してから何があったでしょうか。いちばん目立ったことは、2人の女性閣僚のスキャンダルによる辞職です。予算委員会の首相を見ていると、このごろの子供のように「すぐキレる」ことが印象的でした。「こらえ性がないな」としばしば思ったものです。亡くなった高倉健さんが心がけていた「ガマン」という精神性の欠けているのが特徴でした。臨時国会は9月29日にはじまり、11月21日の解散まで54日間です。首相の外遊はこのうち13日間(ASEMと大型外遊)。必要な海外出張があることは否定しません。しかし「この時期」に行かなければならないものだけとも思いません。臨時国会会期のうち、24・07パーセント、約4分の1が外遊に当てられたのです。まるで逃避行です。(2014/11/19)