モノと心の独り言

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”ファンクショナリー”な社会?

2005-10-02 10:26:45 | 基本的なコト
コミュニケーションとメディアの相関モデル のメディアの相関モデル図で、
”ファンクショナリー・パーソナル・パブリック”と表現してみた。
”ファンクショナリー”を辞書にあたれば、
”機能的に、実用的に”という副詞なのだが、
”ファンクショナル”と形容詞で、止めなかった感触は何だったのだろう。
この勝手で、造語的な表現をしてしまった要因を考える。

パーソナル、バグリックが、形容詞なのは、
自立した近代個人という神話を崩して、
相対的の人間意識の両極を示したかったから。
人間も、原初をたどってくれば、無機物・有機物・生物・動物の
因果関係で’ほぼ’説明できる、機能的な存在だけど、
環境との折り合いをDNAだけに頼っていた次元を超えたとき、
機能組織であるだけでない組織体になった。

人間が、ペットとして動物を飼い、相関関係を強めても、
相手は機能的な反応をしているにすぎない。
植物を育てるにしても、その相関関係の貴重さは、
相手ではなく自身の意識の中にある。
また自らも、動物・植物そして無機物の環境と機能的な反応を
人間同士の反応と区別して意識していないことが多い。
いや、逆に”癒し系ロボット”のように、その相関関係が機能的に仕掛けられる。

この”ファンクショナリー”というコトバ使ったのは、
この機能的・因果的に反射しあって存在しあっている常態を言いたかったようだ。
組織の機能論が社会論であり、自然の機能論が錬金術から自然・物理化学である。
実証できる、つまり繰り返し確かめられる範囲での因果関係のなかで、
存在・持続していることを、”機能的な・実用的な”という表現で収められる。

それは、自然とか物理・化学とかいう自然科学が適用できる分野だけではく、
生物・動物の生存から、人間社会までひろがる。
そして特に、経済的(通貨という交換基準で動く組織・事業活動・成果測定の領域)では、
ファンクション・機能が、盛んに語られる。

社会組織も、資本市場のなかでの株式会社が世界を座圏する。
国家組織も、かっては軍事力だけで地域の支配権・収奪権を争ったのだが、
今では世界市場での存続価値を維持し続けることで、
自律的な生活文化を守る時代だ。

その自律的な生活文化が意識されるときに、ファンクショナリーなことから、
パーソナルなこと、パブリックなことが、分離・階層化される。

うむ、
この"生活文化”というのも、また神話かな・・・

生活文化=相互に関係しあう仕方が持続・深化したもの?


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