人間社会の成長の果てが、合理的な資本の自律的運動に翻弄されることだったのか?
生存の糧のモノを共有するという理念が、労働もモノに置き換えた唯物論による教義となった共産主義が100年を超えた。自由・平等・博愛がセットになっている人権を掲げての新大陸、アメリカ合衆国の大統領選挙に、共産党とグローバル資本家が、メディアを総動員して、人心を取り込む姿を観る。
刀よりペン、ペンよりラジオ・テレビ、放送よりネット、デジタル・モニター画面は、高精度化して、聴覚・視覚・触覚をもバーチャル化してゆく。WTO順守を装い世界通貨を集中して作り上げてきたセンシング・5G・電動・自動運転は、人とモノを統御するグローバル・プラットフォーム。
そして、破壊しつつくしてきた「文化」を、世界から取り寄せる人材網を、築いてきた。
今、生存から生活へ、合理性から偶有性を唱えるのは、
その欠乏する「文化」を生み続けるローカルな地域を再構築してゆくこと。
ローカルな感応社会が醸成する生活文化こそ、資本社会に生きてゆく糧。
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