モノと心の独り言

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「知覚の宙吊り」、注意のイリュージョン

2005-11-22 09:17:53 | コミュニケーション-メディア
  「ファンクション・・  
  「意図すること・機能すること・・・   
  「共感すること・・・・
  ・・・コピーすること・・
  から、”注意”という概念に近づいて
「知覚の宙吊り」ジョナサン・クレーリー著を通読した。

近代を借り物の言葉で走ってしまった日本は、
西欧での近世から近代の感性の転換を、
同じようには体験していないことが分かる。

この本は、
モネ、スーラ、セザンヌと知覚と表現の変化を、
同時代の社会・工学・思想と参照しあう。

モネの郷愁
 解体されたはずの主題へと、感性を絶えず戻そうとする郷愁
スーラの諦観
 図と地、内と外、の分解と停止
セザンヌの官能
 分析・構造化の果てのイリュージョン

クレーリーは”注意”という言葉で、
近世から現代を刺し貫き、
その索引は、169頁。
社会現象・工学・科学・社会学から美術まで、
生活・知覚・記録・表現を駆け巡り、
言葉の複雑系を踏破する。

その”注意”の軸から窺えるのは、
西欧の肉質化された言葉、メタファーへの張力(tention)なのだ。
「肉中の哲学」
画像と描画

”注意:a・tention ”が、
揺らぐ主体を社会に繋ぎとめるだけでなく、
繋ぎとめられていた社会・対象のイリュージョンへといざない、
社会システム内に没していた自身を引っ張り出し、
社会を創造する契機ともなりうる希望を持たせる。

世界システムに組み込む注意には、同時に、
その世界システムを揺らがす可能性がある。
注意による、対象への凝視、没入が、
対象をにじませ、自らも揺らぐ契機となる。

”宙吊り”
混沌を探るネット上の検索エンジンは、
ある種の知覚の延長みたいだ。
それもメタでもベタでもごちゃ混ぜの、
微分的な知覚延長の操作のようでもある。
他方、積分を重ね続けて、脱色すれば、
金融資本市場こそが、
世界の宙吊りのシステムのようにも見えてくる。

その宙での一瞬の凝視、

写真は、違和の鏡、「メディア写真論」、写像での別の視点の獲得だった。
アートは、違和の知覚、「アートは・・・」
科学は、違和の参照、実証という自省システム

差異の複雑系の中での、"注意”は、
それぞれが自己組織化の自省の知覚回路としての希望を持たせる。
「自己組織性と社会」

では、街での”注意のイリュージョン”
眼差しの先 渋谷
写像と鏡像、見下ろす女
渋谷駅前交差点こそ、現代のスペクタクル、
社会生産・消費活動という日常こそ催眠状態、

注意に対象が滲みはじめ、浮遊しているとこきこそ、
この時間・空間から抜け出しているのではないか?

では、知覚の”宙吊り”とは、
高所からでも、地上からでもない、中吊り
中国では、天子のあるいは仙人の天に近い高さを感じるが、
ここ日本ではやはり、
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」にぶら下がって、
色即是空・空即是色
「何をくよくよ川端柳、川の流れを見て暮らす」<坂本竜馬> 
川面の位置、なのだ。

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