「意図すること」、
それは、自己内外の刺激が意識化されること。
その前の活動から、次の活動への、時間の長さによって、
反射であったり、反応であったり、
長期記憶領域を動員した嗜好であったりするけれど、
なんらかの刺激の総体が、意図として結集している。
「意図すること」は、
個人のレベルでは、
好き・嫌い・などの嗜好、
こだわり、生き方という意識化されたものから、
性格・トラウマなど、外部観察の形をとるものがある。
家族、地域、広域、国家、総体としての地球と広げたレベルでは、
その最大の単位の国家が「意図すること」は、
法と軍事・経済活動など、記述され・行動され・成果が観察・記録されるものと、
生活文化のように、観察・記録されにくいものがある。
この「意図すること」が伝達されるものとして表現したことばに、「ミーム」がある。これは、オックスフォード大学の生物学者リチャード・ドーキンスが、1976 年の彼の著書「利己的な遺伝子」で、作られたことばだ。
そのことばの社会的な扱いは、
「ミーム:心を操るウィルス」リチャード・ブロディ著
で、概略がわかる。
このミームは、何か、物質的であり、変化しないもののようだ。
存在を、量子論と波動論にわけると、量子論の方だろう。
私としては、「意図すること」が引き起こすのは、
物質的な感じではなく、共振するする、共感するというような、
振動的、波動的なことだ。
「意図すること」は、論理記号的に文字・記号で置き換えるよりは、
現象を移しとる(写すというと、視覚的にしぼられる)感覚なのだ。
視覚的に、聴覚的に、触覚的に、現象を切り取り、移し持つことが、
「意図する」ことへ繋がっている。
いま、デジタル機器により、写像・映像・音像が、
個人的に移し取り・記録し・伝達することができると、
意図するてがかりとしての「ことば」の寡占状態から抜け出られる。
このように、個人的に「コピーする」された現象が、
社会的には「コピーされた写像・映像・音像」の交換・蓄積・選択されている。
ここで「意図すること」と、「コピーする」こと、「社会的に流通すること」が、
文字を介さずに繋がる構造も見えてくる。
それは、自己内外の刺激が意識化されること。
その前の活動から、次の活動への、時間の長さによって、
反射であったり、反応であったり、
長期記憶領域を動員した嗜好であったりするけれど、
なんらかの刺激の総体が、意図として結集している。
「意図すること」は、
個人のレベルでは、
好き・嫌い・などの嗜好、
こだわり、生き方という意識化されたものから、
性格・トラウマなど、外部観察の形をとるものがある。
家族、地域、広域、国家、総体としての地球と広げたレベルでは、
その最大の単位の国家が「意図すること」は、
法と軍事・経済活動など、記述され・行動され・成果が観察・記録されるものと、
生活文化のように、観察・記録されにくいものがある。
この「意図すること」が伝達されるものとして表現したことばに、「ミーム」がある。これは、オックスフォード大学の生物学者リチャード・ドーキンスが、1976 年の彼の著書「利己的な遺伝子」で、作られたことばだ。
そのことばの社会的な扱いは、
「ミーム:心を操るウィルス」リチャード・ブロディ著
で、概略がわかる。
このミームは、何か、物質的であり、変化しないもののようだ。
存在を、量子論と波動論にわけると、量子論の方だろう。
私としては、「意図すること」が引き起こすのは、
物質的な感じではなく、共振するする、共感するというような、
振動的、波動的なことだ。
「意図すること」は、論理記号的に文字・記号で置き換えるよりは、
現象を移しとる(写すというと、視覚的にしぼられる)感覚なのだ。
視覚的に、聴覚的に、触覚的に、現象を切り取り、移し持つことが、
「意図する」ことへ繋がっている。
いま、デジタル機器により、写像・映像・音像が、
個人的に移し取り・記録し・伝達することができると、
意図するてがかりとしての「ことば」の寡占状態から抜け出られる。
このように、個人的に「コピーする」された現象が、
社会的には「コピーされた写像・映像・音像」の交換・蓄積・選択されている。
ここで「意図すること」と、「コピーする」こと、「社会的に流通すること」が、
文字を介さずに繋がる構造も見えてくる。
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