モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

映像のリアリティ、DICOM、「ナコイカッツィ」から「マトリックス」へ、

2005-02-20 07:35:38 | 映画・音楽・・・パッケージ・メディア
「映像」といっても、二極あって、
一方では、人間感性のリアリティ側へ、
他方では、対象存在のリアリティ側へむかいます。

人間感性側のリアリティとして、視覚から語れば、
網膜像と視床から他の感覚との関係付けられる手がかりの強さ・回数・間隔などとなります。
視覚強さは、鮮度として、密度・画素数・輝度など、大画面やきめ細かさが触覚へ。
画面の切り替わりの速さが、30回/秒を越えれば、人間にとって、連続して感じられます。
そこに、高速シャッターで更に多い画面を取り込むと、スローモーションとして感性時間を延ばし、、
低速度シャッターでは、感性時間を圧縮してみせます。 
映画「ナコイカッツィ」などのゴッドフリー・レジオ監督の映像の強さは、この微積分を多様します。
また、デレグ・ジャーマン監督の映像は、それをコマ落とししながらスロー、粒子の荒れをつかっています。
日常感覚とずれたこれらの映像が、普段見ていながら観えていないものを曝します。

対象存在のリアリティとは、手がかりの刺激とセンサー、
そして記録・表現方式の問題となります。
描画により”神の世界”を映し出していた時代から、
幾何学により透視図が生まれたのがルネッサンス。
今は、人間の視覚だけではなく、
レントゲン・超音波・磁気などによる”視覚”で、
高密度で構造的な対象存在の写し取りができます。
レントゲン検査、MRI、PETなど
人間視覚とは異なる刺激をまとめます。
人類以外もまた、それぞれ得意な感覚を中心に世界を組み立てている。

"リアリティ"とは、人間個人の感性が組み立てる、
今・この場だけの個人の欲望ではない。
「自分たちは、『人間は世界システム』の一部なんだから・・・・」と、
医療データなどで使われるDICOMの技術の人の一言が、
科学としての”リアリティ”を、思い出させてくれました。

他の存在と伴に確かめられる”リアリティ”を手がかりとして、
個人を越えた社会的な関係。

世界が人間を観るのでも、人間が世界を観るのでもない。
テクノロジーにより、人間がマシーンとともに、
世界循環の一部となっていることであり、
俯瞰する者:絶対者は居ない。

私にとって、
レジオ監督の映像は、
あのウシャウスキー兄弟が監督した映画「マトリックス」三部作の第二部、
「マトリックス・リローデッド」でのアーキテクトの前に映る
TVモニター画像にへと繫がってゆく。

存在のリアリティと、生命のリアリティを語るコトバが、
分野ごとの言語だけでなく、
映像として、それも、映画の一コマとして、
自分に語りかけてしまうことが、
もう日常になってしまった。

そう、映像の一こまをコトバにして、動き・感じ・語り、考える、時代なのだ。
携帯にカメラ・マイクとメモリーの載せて、
画像・動画と言葉を同時につかってゆく・・・
その共通語づくりは、流通しているパッケージとしての映像・音楽のおかげでしょう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿