モノと心の独り言

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映画「アトミック・カフェ」 過去の映像から、映像・音像のコトバは?

2005-02-16 02:57:31 | 映画・音楽・・・パッケージ・メディア
ナレーションなし、映像と音だけ、
それも新規の撮影ナシ というとこで、
「アトミック・カフェ」を観た。
監督は、ケヴィン・ラファティ

これは、アトミック:原子の:atmic という
テクノロジーが切り口で、ナコイカッツィ」と重なる部分があり、
”原子爆弾”に関わり始めた人間の実態を映し出す、
映像カットによるプロパガンダの意図がより前面にでている。


言葉も音も映像も、
あるいは、人間が感じる刺激自体も、
前後のずれ・差異の積み重ねである限り、
解釈は多様だけど、

その凝縮度と受け止め方によって、
刺激がサインへ、サインがシンボルへと変わり、
その外部性と身体をつなぐメタファーの重なりが、
意味するものと意味されるものの、入れ子状態をつくりだす。

それは、ニューロン・ネットワークに束ねられ、神経から筋肉、
そして外界との内外力の均衡として、外皮・内臓の境界により、
世界と繫がっている。

一人一人の生涯が、
その生命の衝動と外界とのバランスの軌跡。
それは、人間が特別のものではなく、
種や属を越えて、生命の共通の姿。
ホヤやゾウリムシまでもが、似たもの同士なのだ。

脱線したけど、
共有する相手が居てこそ映像・音像がコトバとなるのであり、
分かち合う相手が居なければ、刺激の域を出なかっただろう。
また、モノもまたコトバと化し、
例えば”バレンタイン・チョコレート”、
これも商品がコトバに化けたお祭道具なのだ!
多様にブランド化されたチョコレートは、
そのコトバの意味のズレ・差異化の結果である。

世は、ブランディングという手間をかけて
モノやサービスをすらコトバ化しようとしている最中。
セレクト・ライフという、
セレクトしかできない無限の消耗ライフから、
ぬけだす道具として、
映像や音像が、切り離されたコトバになるか?
さもなければ映画も音楽もまた、
消費されるエンターティメント商品でしかない。

共感と差異の共存、
価値観を共有し、少しずつズレながら暮らすのが社会的人間の姿。
モードの舞台では、ズレすぎは、ハズレなのだよ。
            (端からズレると落っこちる)


ps)深夜のブログは、怖いね。

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