狩江のお祭りと文化論

~愛媛県西予市明浜町狩江地区のお祭りや、四季折々の風景、暮らしを独自の観点からお伝えいたします~

段々畑の歴史その① 江戸から明治にかけて

2020-04-19 11:19:15 | 重要文化的景観

みなさんは段々畑の風景といえば、どんな風景を想像されますか?

いきなりの質問ですが、下の写真みたいな感じですかね?

このような段々畑を思い浮かべる方がほとんどだと思います。あるいは棚田のような風景かな?または遊子のじゃがいも栽培の段々畑とか・・・・。

この上の写真は最近の本浦地区のものですが、いま私たちが目にする風景は、その時代の住民の暮らしや生業とともに少しずつ変化しながら今の景観になってきました。そしてこれからもずっと変化し続けていきます。

今回は、その変化の過程を先の文化的景観調査報告書を参考にしながら、みなさんと勉強してまいりたいと思います。前回の地質学に続き、第2弾。(寝ないでね!)

題して、 段々畑の成立と変遷の概要 江戸期から明治期の姿

航空写真によりますと、現在狩浜全体では約9000枚!の段畑が確認できるそうですが、ちょっと想像がつかない数字ですね。また本浦地区の段畑は、ふもとからてっぺんまで約60~100数十段の石垣が築かれているそうです。実際ワークショップで子どもたちや大学生が数えてみたところ、最高120段前後まで数えたそうです。これまたものすごい数字!

そんな天まで届けの威容を誇る狩浜の段々畑ですが、現在はチャート、石灰岩を中心とした石で組まれています。そうです、前回の講義で説明した秩父帯南帯という地質層から出てくる石ですね。チャートは固く、石灰岩は加工しやすい特徴を持っています。ジュラ紀という時代の付加体に含まれています。

では、その昔江戸期あたりの狩浜の畑ってどんな姿だったんでしょう?

現在のように天まで至るような段々畑だったのでしょうか?

江戸時代においては、狩浜は主に漁業中心の生活であった為、サゴ畑が大部分であったようです(石垣で補強されていない畑のことです)。また18世紀後半には食料としての甘藷(サツマイモ)が伝わったり、ハゼの栽培が吉田藩から奨励されるなどして裏山の開墾が進み、そのような植物がおもに栽培されておりました。また川沿いに少しばかりのお米も作られていました。

     

ただ開墾して山を掘れば石灰岩がごろごろ出てきます。邪魔になった石を割って低い石垣を造り、急斜面の畑を補強するようなことはしていたと思われます。その初期の石垣(ムカシイシガキ)は今も確認することができます。でもまだ石垣造りの段畑は主流となっていませんでした。

そういう時代、幕末から明治にかけて一人の石垣つくり名人があらわれました。本浦に住居を構えていた上村與十郎です。彼が活躍していた時期に8mを超える石垣を築きました。どうしてこんな山の奥にこんな巨大な石垣を!?と誰もが思う、城の石垣のような造りです。今も山中にひっそりとその威容を誇っています。

(馬ころばしの石垣↓)まるでお城の石垣!!高くて怖くて登れません!・・・・

       

このように江戸後期から明治初期にかけての時代、狩浜の段々畑はだいたいこのような様相であったろうと思われます。石垣段畑の黎明期といった時代でしょうか。

当時の生活とともに段々畑の様態は変化していることをわかっていただけましたか?

(もっと勉強しろ!・・すみません・・・)

まだまだ勉強不足で説明も不十分なところもありますがご容赦を。

次回は、石垣造り飛躍の時代について学んでゆきたいと思います。では、また。

                      to be continued