狩江のお祭りと文化論

~愛媛県西予市明浜町狩江地区のお祭りや、四季折々の風景、暮らしを独自の観点からお伝えいたします~

へぇ~っ、そうなの?狩浜の地質について

2020-04-17 11:27:39 | 狩江のジオパークポイント

みなさん突然ですが、今回は狩浜の地質(大地のなりたち)についてちょっと薄学ながら話してみたいと思います。

                              *

写真(↓)のように私たちが暮らす狩浜は、集落の裏側(=北側ですが)に急峻な山々が、南側には青い宇和海が広がる典型的四国西南部の地形です。

そんな南予の典型的風景なんですが、この風景の中には長~い地球の営みが隠されています。知れば、おおおっ!ていうような大地の歴史が詰まっています。そんなわたしたちの狩浜と、地球の大地の歴史についての話。

               *

さて、まず狩浜を知るキーワードが仏像構造線。

●参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/仏像構造線 

                                                                 

狩浜の大地は、集落の中央を東西に通る仏像構造線という断層を境に地質がほぼ2つに分かれます。ひとつは写真(↑)の左側の山や陸地で、約2億5千万年~2億年前に形成されました。もうひとつは写真右側の陸や海あたりで、それ以後の白亜紀って時代に形成された地質です。

それぞれ秩父帯南帯、四万十帯と言われます。

これらの地層帯は、プレート移動ではるか南の方から運ばれてきた岩石が大陸とぶつかってできたり、浸食された土砂など堆積したものが海底から押し上げられ、付け加えられてできたりしたものです。(付加体と言います)。

四国の大地はこの繰り返しで出来ました。

狩浜はこの時代の違う地質がぶつかり合うちょうど境目にあるんですね!

具体的に説明しますと・・・・・

みかんの段畑がある山のあたりはごつごつとした硬いチャートや、狩浜の段畑の代名詞となっている石灰岩が多く見受けられます。このあたりはジュラ紀前期から後期という時代に形成されました。そう、ジュラシックパークのジュラですね!

これが秩父帯南帯。(ジュラ紀前期~後期

さらにお伊勢山とか祇園山やショウジョ山から久保浦海岸あたりは、砂、泥系の割ともろい地質で出来ています。また海岸線の磯なども同じ地質で出来ており、砂岩や泥岩といった岩石が中心です。通称「島の元」の島も砂岩の塊と思われます。

これが四万十帯。(白亜紀前期~後期

わたしたち狩浜人はこの2つの地質帯の上で生活してるんですね。

なんだかワクワクしません?ジェラ紀とか白亜紀とか。恐竜が闊歩していた頃なんです!

●参考資料https://ja.wikipedia.org/wiki/白亜紀   

 

このように狩浜は、2つの違った地質がぶつかった場所に位置し、かつそれらの特徴を確認できるたいへん興味深い場所であります。

このような地殻変動によって出来上がった狩浜なんですが、その頃はまだ現在の中国と陸続きでした。やがて今の中国大陸から分離し、徐々に現在の日本列島の形に近づいてゆくのですが、現在の狩浜の景観になってゆくには、さらに隆起や陥没、浸食を繰り返しながらの長い時間が必要でした。その隆起の痕跡が下の写真です。

山が段々になっているのがわかりますか?海岸段丘といいます。徐々に隆起していったなごりです。

●参考 https://kotobank.jp/word/海岸段丘-42209

さらに隆起と浸食がもたらしたものが今の急峻な山です。仏像構造線を境に、比較的柔らかい四万十帯の地層は浸食されてみごとな断層崖の絶景を生み出しました。

このような景観は、外部からのビジターに感動を与え続けています。こんな景観はあまり見たことないそうです。

現在でも四国山地は隆起し、反対に豊後水道の海溝に大地がひっぱられているのだそうです。

このような狩浜の大地の成り立ちを想いながらふるさとの風景を眺めると、なんかへぇ~っ!て気持ちになりませんか?(ならない!おまえの解説がまずい!って声が聞こえる・・・)

もし何かの縁でこの狩浜の土地に立ち、海や山を眺めたとき、ちょっとジュラ紀とか白亜紀とか仏像構造線なんかを思い出していただければうれしい~!なぁと思います。

以上、素人地学の時間でした。ではまた!                       to be continued

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿