愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

3月、忘れてはならないことがある!3.1ビキニ!3.10東京大空襲!3.11東日本大震災!3.15治安維持法による大弾圧!

2021-03-11 | 憲法を暮らしに活かす

何年経とうが、人間の命を奪った歴史は

後世に伝えていかなければならない!

いろんな思いを、そのまま!

朝日 ビキニ事件 福竜丸元船員に口を開かせた中学生たち 

西村奈緒美 聞き手・武田肇

https://www.asahi.com/articles/ASP316J3QP31UTIL032.html

2021年3・1ビキニデー集会は「オンライン」で開催!2021/01/20

http://shizuoka-kenren.jp/news/hisai67nen20210301bikini/

福井新聞 ビキニ被ばく67年、核廃絶訴えオンラインで集会 2021年3月1日 午後6時32分

https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1269721

 オンラインで開かれた「3・1ビキニデー集会」=1日

米国のビキニ水爆実験で静岡県焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が被ばくしてから67年となった1日、「3・1ビキニデー集会」がオンラインで開かれた。参加者らは、1月に発効した核兵器禁止条約を日本政府が批准するよう求めるとともに、核兵器の廃絶を訴えた。集会は例年、第五福竜丸の母港がある焼津市内で開かれている。最後に「日本政府が核兵器禁止条約に背を向けていることは世界唯一の被爆国にあるまじきことだ」として、政府に条約の批准や水爆実験による被害の全容調査などを求めるアピール文を採択した。(引用ここまで)

「東京大空襲を語り継ぐつどい」はオンライン(Vimeo)にて配信します

https://tokyo-sensai.net/

 東京大空襲の証言ビデオ 20年以上放置 300人超の証言が封印の恐れ 都平和祈念館計画凍結で 

東京 2021年3月10日 06時00分

 東京都が記録した東京大空襲など戦争体験の証言ビデオ300本以上が倉庫に放置され、活用されない状態が20年以上続いている。当初展示予定だった「都平和祈念館(仮称)」の建設計画は凍結。都は別の方法での公開には「本人同意が必要」とする一方、意向確認は進めていない。10日で大空襲から76年。証言者が高齢化する中、「無責任」と批判の声が上がる。(岡本太)
東京大空襲などの証言ビデオが保管されている都内の倉庫=岡本太撮影

東京大空襲などの証言ビデオが保管されている都内の倉庫=岡本太撮影

◆祈念館凍結で公開も立ち消え 都、公開の意向確認の予定なし

 「みんな自分の経験を後世に伝えたいと思って、必死に話している。埋もれさせるなんて」。証言者の1人で、作家の早乙女勝元さん(88)は、語気を強めた。
 証言ビデオは1996~99年度、当時都が建設を目指していた祈念館での公開を目的に収録した。330人分が集まったが、日本の加害についての取り上げ方など、祈念館での展示内容や歴史認識を巡って反発があり、都が99年、建設の計画を凍結。ビデオの公開も宙に浮いた。
 都の担当者は「祈念館での公開を条件に集めたもので、本人の同意なしに、それ以外の目的では使えない」と説明する。
 記録した330人のうち9人は同意を得て、空襲関連の展覧会で部分的に公開しているが、残り321人については「祈念館での公開が前提」という原則を強調。意向の確認をする予定はないという。
 祈念館建設は意見が分かれたまま、見通しが立っていない。
7日から始まった都の資料展で公開された9人分の証言ビデオ。残り321人分は今も公開のめどが立っていない=7日、東京都豊島区の東京芸術劇場で(岡本太撮影)

7日から始まった都の資料展で公開された9人分の証言ビデオ。残り321人分は今も公開のめどが立っていない=7日、東京都豊島区の東京芸術劇場で(岡本太撮影)

◆80歳を超えた証言者たち 貴重な証言、失われる可能性も

 証言の撮影は映画監督の故渋谷昶子のぶこさん=2016年死去=らが担当。証言者には「リンゴの唄」で知られる歌手の故並木路子さん=01年死去=もいた。
 江東区亀戸で被災した酒井キヨさん=撮影当時(66)=は、祈念館以外での活用に同意した1人。「朝明るくなったら1面のピンク色。足元をよくみたら、みんな人間なんです。蒸し焼きになって死んでいる。その上を歩いて帰るしかなかった」と空襲翌日の様子を語っている。
 証言者は撮影当時58~85歳。今は全員が80歳を超える。すでに亡くなった人も少なくないとみられる。都は「遺族の同意で公開するのは難しい」としており、生々しい証言のほとんどが、永久に封印される恐れがある。

 東京都平和祈念館 東京都が墨田区に建設を計画していた戦争体験継承のための施設。延べ4500平方メートル、総工費47億円で、2001年度末の完成を目指していた。都が空襲被害だけでなく、日本のアジアに対する加害的な側面も取り上げる展示内容のたたき台を示したところ、都議や一部の識者から「自虐的」などと批判が上がり、都議会は1998年、「展示内容は都議会の合意を得た上で決定すること」とする付帯決議案を可決。石原慎太郎都政となった99年、都は批判と財政難を理由に計画を事実上凍結した。【関連記事】【動画】孤児たちの闘い~東京大空襲~ 戦争孤児と関係者の証言集((引用ここまで)

共産党1600人の大検挙「三・一五事件」で浮き彫りになった“政府の言論弾圧”

政府による「記事の差し止め」が許された時代 小池 新

https://bunshun.jp/articles/-/19319

読売 福島第一に放射線量が極めて高い設備、

「数時間で人が死に至る恐れ」…廃炉工程遅れる可能性 2021/01/27 06:43

https://www.yomiuri.co.jp/science/20210126-OYT1T50150/

放射能汚染の修復 道半ば 科学踏まえ福島復興策を Earth新潮流 日経産業新聞 2021年2月1日 4:30

https://www.nikkei.com/article/DGXKZO68609700Y1A120C2X12000/

NHKスペシャル「徹底検証 “除染マネー”」

3月10日(水)[総合]後10:00

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/trailer.html?i=28311

NHK 【東日本大震災10年】語り継ぐあの日 “震災の記憶 忘れない”  東日本大震災

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210311/k10012908851000.html

東日本大震災の発生からきょう11日で10年となる中、各地では震災の記憶や教訓を語り継ぐ取り組みが行われました。

千葉 旭 語り継ぐための開門作業

 
東日本大震災で千葉県旭市では、高さ7.6メートルの津波が押し寄せるなどして16人が犠牲になり、被害の大きかった飯岡地区でおかきやあられを製造する食品工場ではほぼすべての施設が流され、幅およそ4メートル、高さおよそ2メートルの門だけが残されました。
規模を縮小して再建された工場の出入り口は別の場所に設けられこの門は使われなくなりましたが社長の山中武夫さんと従業員は震災の記憶を忘れないため、今も日曜日を除いて毎朝、門を開ける作業を続けています。
門柱には津波に流されて数百メートル離れた場所で見つかった木製の看板が今も掲げられ、震災から10年を迎えたけさも、いつもと同じように、山中社長が、ゆっくりと門を開けていました。
山中社長は、「津波で工場など何もかもがなくなってしまいつらかったですが、10年の間にたくさんの人に応援していただいてなんとかここまで来ることができたという思いです」と振り返っていました。
再建後は工場の規模を縮小したため提供できる商品の種類は震災前の3分の1になっているということで、山中社長は「商品の開発などまだ志半ばなので、きょうはこれからも頑張ってやるぞと気持ちを新たにしました」と話していました。
工場で行われた朝礼では山中社長は従業員に、「10年前の震災で工場も壊滅的な被害を受けましたが、従業員が頑張り、大勢の皆さんにも助けていただいて、なんとかここまでやってこられました。きょうは亡くなった人のため海に向かって手を合わせてください」と呼びかけていました。

宮城 山元町 震災遺構の中浜小学校を公開

 
東日本大震災の津波で被災し、教訓を伝える震災遺構として整備された宮城県山元町の中浜小学校が震災から10年となるきょう、無料で公開されました。
山元町の中浜小学校は、高さ10メートルを超える津波に襲われ、2階建ての校舎の屋上近くまで浸水しましたが、児童や住民など90人は屋上にある屋根裏倉庫に避難して全員助かりました。
児童数の減少などで震災の2年後に閉校となり、去年9月に教訓を伝える震災遺構として整備されました。
初めての3月11日となるきょうは無料で公開され、訪れた人たちが津波の爪痕が残る校舎をガイドの案内で見学していました。
震災当時、小学6年生だった埼玉県の女性は、「ここにいた子どもたちはどれほど怖かったかと思うと胸が締めつけられました」と話していました。
当時、校長だった井上剛さんは「全国の人たちに自分の目で見てもらい災害の時にどう行動するか考えてもらいたいです」と話していました。

岩手 三陸鉄道 記憶語り継ぐ臨時列車走る

岩手県沿岸を走る三陸鉄道では、震災の記憶を語り継ごうと社員がガイドとなって被災地を案内する臨時列車が運行されました。
三陸鉄道は、震災の津波で被害を受けましたが、3年後に復旧し、おととしにはJRの路線が移管され、全長163キロのリアス線が開通しました。
震災の発生から10年のきょう、沿線の復興の歩みを知ってもらおうと臨時列車が運行され、県内外から訪れた30人が乗り込みました。
列車は、大船渡市の盛駅を正午に出発し、4時間半かけて北上し、終点の久慈駅に向かいました。
乗客たちは、ガイドを務める社員から、震災当時の被害の状況や復旧への歩みを聞きながら、震災後に整備された防潮堤や災害公営住宅などを車窓から眺めていました。
そして、地震が発生した午後2時46分、列車は津波が遡上(そじょう)した宮古市の閉伊川にかかる橋の上で列車が止まると、乗客たちは黙とうして犠牲者に祈りをささげていました。
震災後に、たびたび岩手県を訪れているという大阪市の40代の男性は、「震災直後と比べて、かなり復興が進んでいると改めて感じました。三陸鉄道には地域に密着しながら復興を支えてほしい」と話していました。
宮古市の40代の女性は、「復興は大きく進んでいますが、車窓から沿線を見ると地域によって大きな差が出ていると感じています。三陸鉄道には通勤・通学の足としてこれからも地域を支えてほしい」と話していました。

福島 いわき 語り部とともにめぐるツアー

福島県いわき市では、地元の住民に改めて防災への意識を高めてもらおうと、語り部とともに津波で被害を受けた沿岸部をめぐるツアーが行われました。
このツアーは、福島県といわき市が、震災10年にあわせて初めて企画しました。
ツアーには、いわき市に住む9人が参加し、地元で語り部の活動を続ける大谷慶一さんとともに津波の被害があった沿岸部をバスでめぐりました。
このうち、津波などで100人以上が犠牲になった海沿いの薄磯地区では、大谷さんが震災当時の写真を見せながら体験を語りました。
大谷さんは、津波が襲った際、近所に住むお年寄りの女性を背負って高台を目指して逃げていましたが、途中で女性と離れ離れになり、悔しい思いをしたと話しました。
そのうえで、自分の命は自分で守ることが大切だと訴えていて、参加した人たちは時折うなずきながら話を聞いていました。
ツアーに参加した50代の女性は「改めて、自分たちの住む地域の防災について学ぶことが大切だと思った」と話していました。


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