治安維持法の果たした役割から侵略戦争を断罪すべきだ!
アジア諸国の民衆と連帯するためには
「日本軍国主義」の「駆逐」思想を検証することだ!
天皇制擁護ではなく
憲法の自由人権民主主義の視点から
治安維持法を問うことは
戦前70年を検証し
今後70年を展望することになる!
治安維持法
2度逮捕の105歳男性 「秘密法 口ふさがれる」
西川さんは「若い人たちに、私と同じ目に遭ってほしくない」と話す=大阪府貝塚市で |
![]() |
戦前、言論や集会、結社の自由を大幅に制限した治安維持法が公布されてから二十二日で八十九年。同法違反に問われ、二回逮捕、投獄された男性は、百五歳の今も大阪府内で健在だ。生存する逮捕経験者では最高齢とされる。昨年末に成立した特定秘密保護法は「治安維持法と同様、国民の口をふさぐ法律だ」とし、廃止のために国民が声を上げ続ける必要があると訴える。 (小松田健一)
男性は貝塚市在住の会社顧問、西川治郎さん。一九〇九年、三重県鵜倉村(現南伊勢町)に生まれ、十三歳で大阪市の商店へ働きに出た。店主がクリスチャンで、西川さんも十五歳で洗礼を受けた。
満州事変(三一年)を契機に日本は戦争への道を歩み始める。宗教者として戦争に反対だった西川さんは、共産主義の影響を受けていた「日本戦闘的無神論者同盟」に参加する。
一回目の逮捕は三四年。東京・浅草の自宅へ夜、特別高等警察(特高)の刑事が踏み込んできて、妻とともに連行された。「逮捕状を示さず、容疑も告げないまま『おまえは共産党だ』『天皇陛下に反対するやつは殺されても文句は言えない』と責め立てられた」
妻は釈放されたが、西川さんは拷問も受けた。両手に手錠をかけられたまま、椅子に体を縛り付けられ、桜の木の棒で両ももを何回もたたかれた。十日間は起き上がれなかった。勾留は十一カ月に及び、執行猶予付き有罪判決を受けた。
釈放後、大阪に戻っても特高の監視は続いた。二回目の逮捕は四〇年。知人から受け取った反戦ビラを持っていたことが理由だった。懲役二年の実刑判決を受け、服役する。「警察の留置場は房内にくみ取り便所があってとても臭かった。文字通り『臭い飯』を食べた」と振り返る。
逮捕と投獄で自由を奪われた時間は、延べ四年間。戦後は兄が起業した製粉会社で専務として働くかたわら、政府に対して治安維持法で摘発した人々の名誉回復と謝罪、賠償を求める運動に携わった。
昨年、特定秘密保護法をめぐる議論が本格化するまでは、報道機関の取材を受けようとは思わなかった。「つらい経験を思い出すし、仕事や世間付き合いのことも考えた」からだ。だが「若い人が私と同じ目に遭ってほしくない」という思いから、忌まわしい記憶を語ることにした。
特定秘密保護法が定める秘密の範囲があいまいな点を、容疑が不明なまま逮捕、起訴された経験に重ね、言論の萎縮を恐れる。「治安維持法も、戦争に反対することができない雰囲気をつくった。物言えば唇寒しだった」
成立した時は「またこういう法律が出てくるとは…」と嘆いたが、希望は失っていない。「法律を変えるのは容易ではないが、問題点を丁寧に訴えて廃止の機運を盛り上げることだ。違憲訴訟を提起し、司法を味方に付けることも重要だ」
<治安維持法> 皇室や私有財産制度を否定する活動を取り締まるため、1925年(大正14年)に制定された。28年に最高刑が死刑となり、41年にも大幅改正があった。
対象は当初の目的だった共産主義活動にとどまらず、政府に批判的な言論や活動全体に拡大した。裁判は二審制で私選弁護人を認めず、刑期満了後も身柄を拘束する「予防拘禁」があるなど、手続き上も人権を大幅に制約した。終戦後の45年10月に廃止された。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(東京)によると、逮捕者は数十万人にのぼるとみられ、現在の生存者は西川さんら約50人。「蟹工船」で知られる作家の小林多喜二は33年、同法違反で逮捕され、拷問を受けて獄中で死亡した。(引用ここまで)
治安維持法とは何か!新聞がウソを言ってはイカン!